失敗学

24日、原発事故をめぐって、二つの第三者委員会が発足した。一つは事故原因を探るための「事故調査・検証委員会」(事故調)、もうひとつは損害賠償のための「東電に関する経営・財務調査委員会」だ。
その最初の「事故調査・検証委員会」の委員長に、「失敗学」を提唱する畑洋太郎氏が任命された。

「失敗学」耳慣れない言葉だ。仙石副官房長官のことばによると、総理大臣から東電、すべての機関、人、組織、を対象に調査するのだそうだ。今回の事故は、あきらかな「失敗」だから、「失敗学」は成立する。はたして、この委員長が「各自、失敗をさらけ出しなさい」と言って、素直に「失敗」と認めるだろうか。

調査は難しいだろうな、と思う。誰しも、自分がやったことを、失敗と思いたくない。とくにそれがraison d'etre(レゾン・デートル:存在理由)を問われることになりかねない場合、認めたくないだろう。
事故調は、内閣官房の一機関にすぎず、聴取に応じない場合の罰則もないという。「海水注入」をやめさせた、やめさせていない、の論争でもわかったように、議事録も最初はとられていなかったとか。記録がなく、記憶はうせていき、答えようという意思もない。ないないづくしのなかでの調査になりそうだ。

失敗学とは面白い発想だ。これまでにも宝塚での脱線事故も扱ったそうだ。失敗は成功の母、とは言うが、そして、幾多の失敗のあと、成功は得られるから、失敗から学ぶことは多いけれど、失敗があからさまになることは少ない。どんなアプローチをされるのか、興味がある。

加齢に伴って、記憶力や行動力がなくなることを「老人力」がついた、といった表現で、ごまかしたけれど、「失敗学」でごまかされないようにしなければ。
言葉のごまかしでは、今日の朝日新聞のなかに、「安全基準」とは仮説に基づく暫定的な数値であって、決して「安全」を約束するものではない、とあった。ことばの与える印象は受け止めるサイドで異なるものだ。


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