ゴミの変遷

毎日、なんとゴミがでることだろう。台所の生ごみは、一時、堆肥にしようと、せっせと堆肥場(材木で囲いを作った)にため込んでいたが、冬場、凍るだけで発酵しないので、あきらめた。ゴミ収集に出している。

次に紙類、これはどうしてこんなにたまるのだろう。新聞、広告、これらは資源ごみに出すが、そのほかに郵便物(私的なものを除いて)ですぐに不要なものがたくさん出る。またファックス送信されてくるもの、結構な量だ。
当初、裏をメモ帳かわりに使おうと、印刷物の裏が白のものと一緒にとっていたが、すぐにたまる。メモをとらなければならないことはあまりない。つまり不要だ。

また包装紙や、パック、段ボールの箱、宅急便の外側、パッキング、など紙類はたくさんある。

これらのゴミ扱いになる紙類は、庭先で燃していた。しかしこのごろの厳しい規制で、自宅で燃すことはあきらめた。ストーブでもあれば、着火のときに使えるかもしれないが、それもない。

こんなにため込むようになったのは、アフリカの記憶が残っているからだ。かの地では、紙というのが貴重品だった。白い紙などお金持ちにだけ許された贅沢だ。
ふだんは鉛筆で書いて、用事がすむと、消しゴムで消して、再使用する。封筒も真ん中に宛名を書くようなもったいないことはしない。端っこに書いて、用がすむと、線を引いたり、消したり、表面が書けなくなるまで利用する。

書くことに使えない紙は燃料になる。ほとんどの家庭が、煮炊きに石をいくつかおいた素朴なかまどを使っているので、燃やす素材に事欠いている。

そんな現実をみてくると、ゴミとして収集車に出すのがはばかられてならないのだ。そうとはいっても、エネルギー源として再利用するだけの知恵はない。
アフリカの現実は、日本では明治・大正時代の田舎にもどることになろう。そうしてみると、たとえば、江戸時代に人糞が肥料として、大切に扱われたことを思い出すべきかもしれない。ゴミと思っているものが、資源に変化、バイオマスの究極は人糞利用なのかしらと、身近な電源に思いいたす今日・このごろなのです。

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