私のジェンダー・バイヤス

数日前、小さな勉強会に出席した。そこで取り扱われた問題の一つがジェンダー・バイヤスについてであった。
ジェンダーとは、生物学的な性ではなく、社会的・文化的な性のことをいい、バイアスとは、両性に対する固定的な観念、あるいは偏見、性差別のことを言う。

私は九州の生まれである。だから、男尊女卑、長幼の順というのは厳しかった。その割にその観念が染みついていないと人は言うが、九州に帰ると、その感覚がよみがえってくる。
東京に出てきて、仕事であまり男女差をいうのを感じなかった。最初の仕事は、アルバイトで、賃金が低いのも、そのせいとわかっていたし、仕事自体、アルバイトと正社員の差別はあっても、男女差という印象はうけなかった。

もっとも長く働いた外国機関では、男女の差別というのはなく、どちらかといえば、女性は大事にされるところがあったので、そこでも男女差を感じなかった。差別があるとすれば、本国からの職員と、日本での現地職員の差がはてしもなく大きかった。

しかし、田舎に住むようになると、この男女差というのか、感覚の違いは大きい。村では、私が参加している活動の集まりでも、つれあいを同行すると、つれあいにまずあいさつされたり、スピーチを求められたりする。
年齢も加わって世慣れてきたので、自己主張をするのも控え目になり、つれあいの後ろに立つのでも別にいいけれど、つれあいと二人きりになると、「あれはなんだ」と文句を言い、つれあいが「まあまあ」となだめることもある。

ご主人、奥様、嫁、家内、といった表現にもひっかかる。ご主人は特にいやで、なるべく使わない。夫とかつれあいを使うが、知人はその言い方をからかって、「夫様によろしく」などと言う。奥様といわれれば、外様(そとさま)よ、と反論し、家内では、家外と言い変える。愚妻という表現だけは絶対許せず、賢妻ならいいとか、愚夫も使うべきと思っている。

つれあいあての手紙などに、令夫人と添えてあるのをみると、私はつけたしではない、と言いたいし、これがたとえば、私あての招待状で、つれあいもあわせて招かれる場合など、令夫になるのかしら、などとひねくれて言う。

こんなことは、実に表面的なことだが、この習慣的なことが体にも心にも染みついている。いつも申し訳ないなと思いながら、二人とも年金生活になり、家計費の分担は、つれあい7、私が3くらいである。これはジェンダーというより、受給年金額の差でもあるのだが、これをもって是としている私の深層心理は、男性が生活費を負担するものと考えていることによるようだ。

ジェンダーバイヤスについては、若い人たちには理解が進んでいるようだが、わが生活環境ではなかなかである。


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