イギリスは参考にならないだろうか

新年を迎えて1カ月が終わった。希望に満ちた、なんて思えたのは1日、2日のみ。あとは、暗い話題ばかりである。年が改まっても、問題山積、解決の糸口すらみえない。

イギリスでは生活したことがないので、ほとんど知らないのだが、日本の現状を見、人口減、マイナス成長、縮小型の将来などと言われると、イギリスが世界の覇者から没落していった道を精査するといいのではないかと思うのである。

「ゆりかごから墓場まで」といわれた福祉は今でも続いているのだろうか。最後にイギリスを訪れたのは1996年のことで、15年も前になるが、当時もあまり景気がいいとは思えなかった。ホテルは高いわりに設備が古く、地下鉄なども、照明は暗く、全体的な印象が暗かった。

ロンドンから電車で1時間ほどのカンタベリーに、古い友人(独身女性)が引退して住んでいた。小さな長屋作りの家に住んでいたが、住居は確保しているものの、日常はつめに灯をともすような生活の仕方がうかがわれた。
昼ごはんを準備していてくれたが、シャンペンをうれしそうに開けてくれる。そんな贅沢なもてなしをしてくれなくても、と遠慮していると、「友遠方より来る、また嬉しからずや」よ、というようなことを英語で言っていた。

そんなに暗く、つましい印象のイギリスなんだけれど、こちらが女性ということもあるが、ドアを開けていてくれたり、なにかにつけ、微笑みが返ってくるとか、余裕のみられる生活ぶりだった。
昨年の若者の暴動や、その原因が緊縮政策によるものというので、国民の生活はずいぶん厳しくなっているはずだ。

世界で、ユニオンジャックがはためいていない時はない、と言われていた時代から、現代にいたるまで、下降線をたどってきている。どうやって、国民はそれを耐え忍んだのか、解析すれば、我々の教訓になるのではないだろうか。


孤独の国フランス?

以前、フランスは個人主義が発達していて、個人、個人の生活を重視し、家族の紐帯が疎であるというような話を聞いていた。そして、それに比べて、日本は家族主義がまだしっかり残っており、老人の孤独など、あり得ないといった説だった。

2006年には灼熱の夏がフランスを襲い、バカンスで出かけた若者たちと違い、パリなどに残った独り暮らしの老人が孤独死したというので、社会問題になったこともある。さらには、孤独死した老人の家族がわからないケースもあったが、家族と連絡をとると、ヴァカンス中なので、葬儀は役所が代行しておいて、という返事があったとか、世も末というような議論がされていた。

日本でも、行方不明の親の年金をそのまま受領していたり、死亡を届けず、120歳になるような年齢まで受領していたり、と、どういう神経をしているのか、わからないような親子関係もあった。

クリスマスからお正月にかけて、里帰りや帰省といった行事をみていると、フランスより日本の方が親子関係が希薄ではないかと思ったりする。
フランスでは、だいたいの家族は、クリスマスと復活祭の行事を一緒にすごす。いつもは離れている家族が実家なりに合流するのだ。親が年をとれば、子どもの家が会場になることはあっても、親を中心に据えていることにはかわりがない。

私が知っているフランスの家族は、保守的で、敬虔なカトリック信者、わりと豊かな中産階級以上のクラスときているからかもしれないが、よく家族の集まりがある。クリスマス、復活祭などとは別に、親の誕生日、結婚記念日(何周年)、そのほかの宗教的行事(洗礼式、初聖体拝受など)にも大人数の集まりがある。
親とは別に、洗礼の時の、代父、代母とのコンタクトも密である。

私が家族の一員として扱われている家庭の縁で、結婚式などにもよく招かれる。遠くに住んでいるのだから、無理なのに、とこちらは思うのだが、その縁を大切にしてくれているのだ。

1月29日の午後、私の代父の家では、甥や姪たち30人以上を招いて、エピファニーの集まりをしたという。エピファニー(御公現の祝日)は本来1月6日だが、それを遅らせてのお祭りだ。ガレットというお菓子とシャンペンでお祝いをするという。もちろん、それ以外の御馳走も出るだろうが、基本的には軽食が出るだけである。
うらやましく思う。兄弟姉妹の付き合いもおろそかになり、甥や姪など、名前を覚えてもいない。一声かけて、それだけの人数が集まるとは、たいしたものである。

絆という言葉が去年から口にのぼるけれど、はたして、どれだけの絆が結ばれたのやら。わが家は懸命に結びなおしているところだが。

フェルメール展を見る

1カ月ぶりに一人上京した。土曜日に孫のように可愛がっている子どものヴァイオリン演奏があるというので、上京したのだ。
エコール・ジェラール・プーレというフランス人のヴァイオリニストが、数人の子どもを選抜して、個人教授をしている。その卒業演奏会にあたる。一番小さい2003年生まれというのが、私が可愛がっている子どもで、最年長でも1994年生まれだから17歳である。
子どもでも自分の音を持っており、テクニックはもちろんのこと、大人顔負けの演奏をしていた。

そして今日は、東急本店内にある文化村のミューゼアムで、時の話題「フェルメールからのラブレター展」に行った。人ごみがきらいで、日本では展覧会などにはいかないことにしている。しかし、人に会う約束をしたのが東急本店、そして2時間も余裕があった。これは展覧会をみなさいと言っているに等しい。

フェルメールの作品は3点だけである。「手紙を書く女」、「手紙を読む青衣の女」、それに「手紙を書く女と召使」である。1663年から1670年にかけての作品だが、手紙ということに気持ちがひかれたことがある。当時、手紙というのは、唯一の通信手段だっただろう。紙も大量生産ではなかったはずだ。手紙を書くというのは、今でも文章がでなくて書けないでいるが、当時の教育程度で、手紙を書ける、手紙のやりとりをする、というのは経済的にも恵まれた階層のはずだ。

相変わらずフェルメールブルーは美しい。パキスタンあたりで産出されるラピスラズリをけずって色を出すというこの色は、当時はとても高価な色彩だったらしい。淡いそれでいて深みのあるブルー、ひきいられてしまう。それに手紙を読む青衣の女の、リボンや袖口の黄色がとてもすばらしいアクセントになっている。

しかし、展覧会で絵をみるのが、少し苦痛になってきた。人が多いこともあるが、離れてみるのに、目の焦点があわなくなってきている。絵をみて、タイトルと説明文を読もうとすると、焦点がくるってしまう。

やっぱり人の多さが障害だ。パリのオルセー美術館も、観光客が多く訪れるけれど、好きな絵の前で独占状態で見ることも可能な程度の人の多さである。

今回の上京は、一つには特殊な音楽会、そしてフェルメールと文化・芸術に満ち溢れたものとなった。そして発見、久しぶりに行った東急本店の7階は、全フロアー本で埋まっていた。なんという楽園だろう。

モーツアルトの誕生日

1月27日は大作曲家モーツアルトの誕生日だそうだ。わが家にはモーツアルトの全作品を収録したCD170枚がある。これはおそらくモーツアルトの生誕あるいは没後何年という記念の年に出されたものと思う。フランスで買ってきた。

まだ全部聞き終わっていない。あと4枚残っている。なんせ170枚である。時間数になるとどうなるのか、合計したことはないが、CDは原則として車を運転中にかけている。通勤で片道2時間だと、ラジオを聴いていても、気に入らない番組の時間帯になることも多い。そんな時、CDをかけるのだが、中途半端に終わると、何度も繰り返し聴くことになる。いれかえもきちんとするわけではない。

シンフォニー、コンチェルト、セレナード・ディヴェルティメント・ダンス、室内楽・ヴァイオリン・ソナタ・教会ソナタ、弦楽アンサンブル、キーボードワークス、教会音楽、歌曲、オペラなどの分野にわけられて170枚、聴きでがありすぎる。

しかし、どうやってこれだけの楽曲を作曲できたのだろう。勿論、聞いていると、このメロディはほかの曲にもあったと思うことがある。本人が使っているのだから、模倣でもなんでもない。でも、おやっと思うと、また別のメロディになっている。

癒しの音楽といわれるが、全曲聴けば全てがそうではないことがわかる。それは私にとってのことなのだが、オペラなど、ドイツ語なのかイタリア語なのか、それもわからないまま、そしてオペラの筋もわからず聴いていると、癒されるどころか、イライラしてくる。

音楽の専門家みたく、モーツアルトの曲なら、なんでもわかると言いたくて、このコレクションを買ってきたのだが、どうも聴く曲は耳に優しい、知っている曲ばかりになりそうだ。それより、もう自分で選曲をして聴くより、ラジオからアトランダムに流れてくる音楽を聴くだけで十分という、受動的なリスナーになっている。

170枚のCDは、聴き終わったところで、音楽大好き、ヴァイオリンとフルート、ピアノと演奏をする友人に差し上げることになっている。今日は残り4枚を聴くのもいいかもしれない。

冬の運転

先週の金曜日まで、空梅雨ならぬ空雪ではないかと思えるほど、雪のふらない冬だった。昨冬の教訓から、早々と11月初めに冬タイヤにかえているので、いつ降ってもいいのよ、と待っていると、なかなか降らない。もしかしたら、この冬、雪がふらないのかも?と期待していたが、やっぱりそうはいかなかった。

日本海側の豪雪に比べると微々たるものかもしれないが、20センチをこえると、除雪を待たなければ外に出かけられない。別荘地は私道、真ん中の道は村道、ということで、除雪はちょっといい加減だ。除雪にかかる前に通った車で、せっかくの柔らかい雪が踏み固められ、わだち以外は運転しづらい。
路面にこびりついた雪は、そのまま残り、少し気温があがっても、凍ったままになっている。

冬の雪道はわだちが3本ある。中央の1本は、両方向の共通わだちだ。対向車がくると大変だ。車を片側に寄せようとしても、タイヤがゆうことをきいてくれない。除雪されて山となった雪に阻まれるし、凍った部分をタイヤがすべることもある。対向車に会いませんように、と運転中、呪文のようにとなえている。

1000メートルの高度に住んでいるということは、必ず下りがあるということだ。それも急坂である。どうして坂のそれもカーブのところが日陰で、凍結が続くのだろう。と文句をつけたくなるが、用事があって、出かけるとなると、その道を通らざるを得ない。
もちろん、シフトはセコンドに落とし、路面がみえるところで、ブレーキを踏んで、なるべく減速しているが、アイスバーンになった道は、直滑降で一直線に滑り降りるのと同じことだ。

くやしいことに、国道まで降りると、除雪もきれいにすんでおり、これまでの緊張がどうしたの?と自分でも不思議になる。

昨日の東京でも降雪があったという報道で、つるつるの道路で、コントロールのきかない車をみていて、「寒冷地の苦労がわかったか」とつれあいと話す。歩いている人たちも、無防備この上ない。靴など、皮靴で、滑り止めがついているとは思えない。雪道用の靴など、持っていない人が多いのだろう。

来週末には立春も訪れるが、大寒を過ぎて、寒さや雪はこれからだ。3月末までは、神様に祈りながらの運転がまだまだ続くだろう。

終活(3):さようなら仕事

つれあいが数十冊ある手帳を処分するという。仕事の名残もあるので、なかなか処分しきれなかったものだ。
それにあわせてではないが、私もこれまで仕事としていたものと、おさらばすることにした。もっと早くに決断すべきだったのだが。

2年前、フランスの日刊紙ルモンドの定期購読をやめた。1年10万円近くかかっていたので、負担に耐え切れなくなったのだが、今のユーロ安をみると、再開してもいいかな、と思ったりすることもある。しかし、もういい。
書棚を占めていたフランスとアフリカ関係の書籍も処分することに決めた。ある図書館に寄付することを申し出ている。

情報提供の仕事をしていたのは18年前まで、アフリカから帰ってもう12年がたつ。この間、私が持っている情報を必要とされるかもしれない、と私なりの情報収集にもつとめていたのだが、なにもなし。もうあきらめるときだろう、と自覚したわけだ。

10年以上にわたった新聞の切り抜きも相当量になるのだが、思い切りよく処分することにする。つれあいが、思い切りがいいね、と感心してくれる。思い切りがいいわけではない。これを全て処分してしまえば、自分の存在価値がなくなるような気持ちなのだ。

結局、仕事への未練がきれるまでに10年以上を要したといえる。また別の関心事があるから、全てを切ったことにはならないけれど、これも終活のスタートにはなるのだろう。まだまだ終活するものはたくさん残っているから、すぐにゴールまではマラソンだけれど。

保守と革新

保守と革新というように、2極対立時代は、単純でよかった。というと語弊があるが、現在の政党図をみていると、2大政党ともいえず、それかといって、アメリカの共和党と民主党というような対立図でもない。
民主党と自民党はどういう違いがあるのだろう。

自民党は消費税については、一応党内統一がとれているらしいけれど、TPPや農業問題などについては一枚岩とはいえないようだ。民主党においては、すべての問題において、反対・賛成が入り混じっているらしい。
マニフェストで八ツ場ダム建設は中止すると、第一に記しておきながら、2転3転、いま何回回転したのかわからない状態だ。
これが昔なら、大公共工事は、大会社、大建築会社の収益を増やすものだから、それをやろうという政党は保守、反対するのが革新と簡単に色づけできたものだった。

米・ソの対立構図であれば、自由主義・資本主義サイドなら米側につき、共産党系ならソ連側だった。冷戦が終わり、2極時代が終われば、戦争の危機がなくなったと言えるのかと思えば、局地の戦争や相手が定かでないテロの時代になる。

私は単細胞の人間で、複雑な思考があまり得意ではない。だから、この対立思想で育ったし、右じゃなければ左という行動をとっていた。どちらかといえば、革新である。革新とか変革といった言葉に酔っていた。
既存の制度への不平不満は山ほどあるし、それを革命ででもひっくり返すことが、若者の義務であるとまで思いこんでいたころもあった。革命とか、アナーキスムなど、言葉の魔力に騙されていたともいえる。

いつの間にか、既存の制度に飲み込まれ、また急激な変化についていけなくなったことから、これが保守とよばれる考えだよと言われるような立場にたつようになっている。
でももう一度、革新派になりたい。こんなに固まってしまった社会を、ほぐして、形を現代にあうように変えなければ、と思っている。

海外留学

東京大学が5年後に秋の入学にすると発表したので、論議を呼んでいる。秋入学の制度をとっていない国は、たったの7カ国で、ほかは9月入学なのだそうだ。これは教育のグローバル化の最たるものだろう。
9月入学制度にすることで、海外への留学、あるいは海外からの留学生の受け入れが簡単になるという。

海外留学、憧れだった。私の時代は、自費での留学というのはほとんど考えられず(ドルが自由に手に入らない時代)、国費留学というのは、超エリートにだけ許されるもの、外国の招へい制度を利用するのが一般的だった。
高校生には、アメリカのAFS奨学金というのがあった。アメリカの高校へ1年間留学するのだ。アメリカの家庭に寄宿して、学校に通う。
日本全国でこの選抜試験は行われた。トライした。が、落ちた。たいした英語力もなかったのに、希望だけで受けたのだ。当然の結果だった。

ほとんどその失敗で留学の可能性の少なさを実感したのだが、心の中には憧れだけは持っていた。だから、フルブライト奨学金やら、フランス政府の留学制度など、名前だけは知っていた。
しかし、それらの奨学金を受けるための求められるレベルの高さには、自分の能力のなさを実感するばかりだった。
友人の一人に、AFS奨学金で留学し、さらにフルブライトでも留学したという人がいる。大学人となっているが、尊敬やら憧れのまとである。

現在では、自費留学というのもポピュラーで、手続きも簡単にできるし、費用も昔ほど高額ではない。短期留学などと称して、月単位のものもあるらしい。とくに語学留学などはそうだ。

語学を学ぶために留学します、と別の友達が仕事場(新聞社)の先輩に言ったら、語学なんて、現地にいけば子どももしゃべってるんだ、学ぶものじゃないよ、と言われたらしいが、そんなものではないと思う。言葉というのは、きちんと学ばなければ話せない。単語で結んで会話が成立したと思っても、それはレベルの低い会話にしかすぎない。

つれあいの仕事の関係で、南仏に住んだ時、政治学院という大学校に在籍したことがある。入学試験を受けた正規の学生あるいはきちんとした留学生ではなく、聴講生という立場である。試験は受けなくていいし(受ける資格がない)、出欠の対象にもならない、気楽な立場である。それでも、まじめに通った。講義のほとんどは、メモをとることもできないほど難しく、記憶にのこらないけれど、アカデミックな雰囲気がよかった。きちんとした言語をきけるのがとてもよかった。

18歳くらいの学生と話す機会が得られるのもよかった。学校が一種のエリート校であるためかもしれないが、学問に対して、とても前向きだった。そして、高校時代にもう英語習得のために、イギリスなり、アメリカなりに留学経験があり、さらに、政治学院在学中にも再度留学をするのだという人が多かった。
きわめて能動的で、英語を習得したあとは、スペイン語系の国で1年間ほどすごすのだという。日本語にたいしても意欲をもっていた。

日本では、このごろ、海外留学が下火になってきたという。身内の若者の中で、甥がMBAを取得するために、イギリスへ2年間留学したけれど、ほかに意欲をみせるものはいない。「なんでもみてやろう」にあこがれていた世代の私としてはさびしくて仕方ない。
留学してどうなる、と言われても、どうなるのかはその本人次第だし、留学が遊学になるかもしれないが、定型外の人生を送りましょうと、若者には言いたいのだ。

香炉峰の雪はいかに

昨日に引き続き、今日も雪が降っていた。折角雪かきしたところにも、しっかり雪が積もっている。さらさら、なんて擬音もいらないような、無音で雪が降る。
粉雪というのか、でも粉でもない、雨のように細長い感じの雪が降っている。

ひととおりの朝の行事を終えたあと、和室のこたつにもぐりこむ。雨戸をあけて、ガラス戸と障子があるだけだ。東側の窓だけ、障子をあける。つれあいが寒いから閉めてよという。雪景色がきれいだから、と説得しながら、白居易の「香炉峰の雪は簾をかかげてみる」を思い出す。

当時はガラス戸などなかったろうから、簾をあげたら、そこはもう外気だったのだろう。どんなに寒かったことか。清少納言の時代にしても同じようなものだ。
中学生のころか、旧家の親戚を訪ねた時のことだ。冬場だった。座敷に通されて、火鉢で暖をとっていたが、雪が降ってきたみたい、と障子全体をあけることなく、中間にあるガラスの部分の小さな障子を開けてくれた。雪見障子というのだろうか、わが家にはなかったので、なんとしゃれた障子なのだろう、どうしてわが家にはないのだろうと思ったものだ。

ずんずんと雪が積もっていく。庭の木々は、おもいっきり雪をかかえて、枝はたわみきっている。水墨画のような景色になっている。静寂の中、野鳥たちだけが、餌を求めて、ベランダに飛んでくる。

みているだけなら、雪景色は素晴らしい。しかし、不都合も多い。雪がふるというのは、そう気温が低いわけではないのだが、雪だけですごく寒く思える。
まだ導入していないが、薪ストーブで火をたきながら、ロッキングチェアで雪景色をみている、音楽はチャイコフスキー、なんていうのは最高なのだが。

薪ストーブ導入計画

今朝起きれば20センチ以上雪が積もっていた。まだ降り続いている。幸いなことにまっすぐに降っているので、ベランダへの降り込みはない。玄関先の階段(12段)の除雪をしなければならないけれど、まだまだ降っているので、一段落したらということにする。

そんな悪天候の中、薪ストーブの会社の方がみえた。先日、JA共催で、薪ストーブの展示会があった。時間がちょうどあいていたので、のぞいてみたのだ。その気をみせたからの来訪である。
現在の暖房は灯油でのファンヒーターが主力である。サブには石油ストーブ、炬燵がある。先日来、イランの原油を輸入するなというアメリカの指示や、ホルムズ海峡を封鎖するというイランの脅迫、原油の未来は暗い。

東電は家庭の電気料金も値上げするという。灯油と電気にばかり頼っていていいのだろうか。そんな懸念が、薪ストーブ展示をのぞいてみた動機だ。つれあいは、たとえ、灯油と電気の料金があがっても、今更、薪ストーブをいれると、工事も必要だし、そのお金もかかる。そのお金で値上げ分をカバーできるではないか、とネガティフな反応だ。

つれあいは、お金のこともさることながら、薪の調達に不安をもっている。このところ、別荘地に新設される家は、かならず煙突がついている。暖炉なのか、ストーブなのかはわからないが、薪を利用するようになっている。家の外には、薪小屋もついている。ときどき来るだけの別荘族なら消費はたいしたことがないけれど、我々のように、常住している家は、消費が激しい。自前で調達となると、大変だ。樹木を切り倒し、適当な長さに切り、それを割っていかねばならない。
そんな肉体労働はもうできないと、つれあいは先にギブアップしている。

除雪のされていない道路だが、果敢に業者の人たちがみえた。だいたい設置場所がないとつれあいは言うけれど、専門家がみればいいアドバイスがもらえるはず、と思っていたが、その通り、発想をかえた助言がある。
壁にとりつけるのではなく、ストーブのまわりも動けるように、部屋の真ん中とはいわないが、空間のある場所に設置するという。

その場所にストーブを置けば、これまで凍っていた洗面所やお風呂場の脱衣所なども暖かくなるだろう。いろんな利点も考えられる。
薪の調達については、最初はできあいのものを買うことになるかもしれないが、またほかの方法もありそうだ。
置き場は薪小屋を作らなくても、お宅はベランダの下がけっこうな置き場になりますよ、と助言は続く。

費用については、屋根をぶち抜いて煙突をとおさなければならないし、いくらかの工事も必要なので、見積もりをだしてもらうことになった。見積もりは無料、だからお断りすることも可能だ。しかし、今なら、村の補助もありますよ、と説得も上手だ。

熱源の多様化を図るか、現状維持か、つれあいと綱引きとなりそうだ。

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