汝の隣人を愛せよ

日曜日の今日、教会でのごミサでは、マタイの福音書がテーマだった。有名な言葉「汝の隣人を愛せよ」がある部分である。
この前には、{「心をつくし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」}となるわけだ。

今日は「愛」がテーマで、同じく読まれた「出エジプト記」では、寄留者、寡婦、孤児を虐待したり、圧迫してはならない、とある。

「愛」はキリスト教のメインの教えであるけれど、この「愛」がどうして実現しないのだろう。キリスト教徒になってそんなに長く(15年)はないけれど、ごミサで「愛」を説かれると、反動として、もどかしい思いがでてくる。
キリストの教えは、永遠のテーマ、決して到達しないテーマなのかもしれない。

家庭の中でも、ご近所でも、友人との間でも、なかなか「自分のように愛」することは難しい。つれあいに対してすら、「愛」や「寛容」の気持ちが失せてしまうことがある。もちろん一番大切な人ではあるけれど、「自分のように愛」しているか、と言えば、「自分の次に」というのが正直なところだろう。

日本では人口の1%にも満たないキリスト教徒であるが、イタリア、フランスなどはキリスト教、そのなかでもカトリックが主流となっている。EUにトルコの加盟がなかなか認められないのは、トルコがイスラム教の国であることが理由の一つと言われている。

それだけキリスト教が勢力をもっているにも関わらず、現代において、「愛」が政治のなかに感じられないのはどうしてだろう。物事の決着は、武力や経済力によってはかられる。
先先代の首相は「友愛」という言葉を使っていたが、どこに「友愛」があったのか、わからないうちに舞台を去られた。
「愛」は難しい。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。