限界集落別荘地

久しぶりで散歩した。風は冷たく、隙間のできた木々の間から吹きつけてくる。わが家のある別荘地は、開発されて40年以上はたっている。きっと売り出し当時は、高度成長期で、別荘をもつということは、一種のステータスだったのだろう。

土地はほとんど売却済みだと思うが、家がたった区画は少ない。家のない区画は、管理も不十分で、木々が生い茂ったり、草ぼうぼうになっている。もっとひどいのは、家が建っていながら、放置されているところだ。家は荒れ果て、壊れる寸前だったりする。電線も切られ、ベランダなどは板が腐っているし、玄関までのアクセスも、草に占領されている。

管理事務所にどうにかならないのかと聞くと、所有者がはっきりしないという。40年以上もたてば、購入者が所有者とは限らない。死亡した人も多く、相続した人がはっきりしないのだ。それかといって、所有権がからむので、管理事務所がどうこうできるわけではない。

そんな別荘の1軒を知人が購入した。もともとの持ち主は、独身女性で、学校の先生だった。数年前に亡くなられ、遠隔地に住む妹さんが相続されたらしい。東京にも家を持っていらしたので、きっとそちらの方はきちんとなさったのだろうが、この別荘については、書類上だけで相続されたらしい。

知人が下見をするというので、同行したのだが、家は亡くなられた前の状態のままだった。家具をはじめ、布団、衣類、台所用品、食器、すべてが残っている。すぐに生活を始められる状態だ。もちろん、数年、閉めたままだったので、畳みなどは変える必要はあるし、私物については、処分することになるだろう。

こうしてみると、この別荘地、限界集落に近い。来ている人のほとんどが高齢者だ。きっと、購入した時はばりばりの現役だったのだろうが、退職し、引退し、暇な時間を別荘ですごしている。

わが家もその1例だ。そのうち、わが家も荒れた空き家になるのかもしれない。我々が住まなくなったとき、娘たちは、車を運転せず(免許証はもっているらしい)、交通手段が不便すぎると、平素からあまりやってこない。自然より、便利な都会のほうが好きのようだ。わが兄弟は、遠い九州に住んでいる。東京在住の娘たち以上にここに来る機会はないだろう。

もし、前記の先生のように、現状のままで、売りにだされたら、購入しようという人は、きっと雑然としたものにびっくりするだろう。少し、整理(断・捨・離)をするべきかも、と思った次第である。

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