言葉狩り

このごろ、言葉を使うのがこわくなった。外国語でもないのに、自国語の日本語を、適切に表現できなくなったような気がしてならない。それでいて、言葉を仕事としているのだ。書いたり、話したりだが、本意がなかなか通じないというのか、うまく表現できない。

年齢とともに、さっとことばがでなくなったこともある。もっと語彙は豊富であったはずなのに、とあとになって、歯ぎしりしたい思いになることがしょっちゅうだ。
だから、政治家の発言が問題になると、責めるより先に、気の毒にねと思ってしまう。発言のバックグラウンド、前後の発言、なにもわからないままに、一言の表現が問題にされる。人っ子一人いない町を「死の街」と言ってはいけないが、「ゴーストタウン」ならいいとか、あるいはブラックかもしれないが、ユーモアのつもりで言ったことばが批判される。日本の政治家はユーモアがないといつも言っているメディアなのに、その許容範囲かどうかは問題外のようだ。

などと、理解者のようなふりをして、相当辛辣に言葉狩りもしている。大嫌いな言葉、それは芸能人がいう「お仕事」、「お友達」、「一般の方」がある。自分の仕事に「お」をつけるなんて、と怒っている。芸能人がそれ以外の職業の人と結婚する時、「お相手は一般の方なので」などと言うのをきくと、芸能人は特殊な方なの?と聞きたくなる(匿名性が許されない点では、特殊な世界なのであろうが)。

「やる」と「あげる」の使い方、動物や植物に対しても、「あげる」を使うこのごろ、こうなると、人間様に対しては「たてまつる」でも使わないと、バランスがとれないような気になっている。

「させていただく」と「~したいと思います」もイライラする。「させていただく」と言えば、謙譲になっていると思っている人が多すぎる。「法案を提出させていただく予定です」などは「法案を提出する予定です」でいいはず。「お詫び申し上げたいと思います」は、本来お詫びしたくないけど、仕方なくというふうにとれる。「お詫び申し上げます」ですむのに、と思ってしまう。

「わたし的には」など、なんでも「的」をつけるのも気分を害する表現だ。「私としては」と言えばいいのよ、と助言したくなるが、言葉は変化して当然なのだそうだ。

だから、それに慣れるまで昔タイプは苦労する。古典の文章がとてもなつかしくなる。今日はラジオで、「論語を読む」といった内容の放送を聞いた。「子曰く、うんぬん」のすっきり、すんなり耳に入ること、古い世代の人間であることを実感した。


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