死刑は残酷?

今日、大阪でおきたパチンコ店放火殺人事件の判決がおりた。「死刑」という。これは裁判員裁判の判決である。この事件の弁護団は、絞首刑という執行方法が残酷であり、憲法違反だということでも争っていたという。

残酷でない死刑の方法というのはあるのだろうか。眠っている間に執行される、つまり「眠ったように死んでいった」という方法で死刑を執行せよとでもいうのだろうか。

死刑存続そのものとは別に、執行方法も検討されるべきだろう。昨年であったか、千葉氏が法務大臣だったとき(?)死刑台が公開された。話には聞いていたが、首に縄がかけられ、執行官がボタンを押すと、床の穴があき、絞首という状態になる。執行官は3人いて、どの執行官の押したボタンで穴があいたのか、わからないようになっている、という。

絞首刑のほかには、どんな死刑の方法があるのだろう。フランスでは1981年、社会党政権が死刑廃止としたので、もう死刑という極刑は存在しないのだが、それまでの方法は、大革命でもとられていた「ギロチン」による死刑だった。「ギロチン」すなわち「断首」である。
革命のころ、処刑は公開の場で行われ、首を切り落として、ほとばしる血を受け止めようと、女性たちがたむろしていたという。生血がなんらかの病気に効くというような通説があったらしい。

アメリカでは映画でみるように、電気椅子が使われるようだ。高圧電気を通すことによるショック死、その前に正気ではなくなるように、薬が注射される場面もある。立会人の制度もあるようだ。

日本の死刑は絞首刑、知識はもっていたし、死刑制度の存続を問題にしても、刑執行のやり方はそれでいいと思っていた。
死刑というものを、極論だけれど、犯した殺人のやり方と同じ方法でするということになったら、どうなるのだろう。今日の判決を受けた殺人事件は、パチンコ店の出入り口のあたりにガソリンをまいて、放火するという、実に無情残酷なやり方であった。火あぶりの刑と絞首刑、どちらがより残酷なのか。
こういうことを書くと、死刑というものが合法的復讐という論になってしまう。

まだ裁判員への選抜はないけれど、こんなに重い課題をかかえた裁判を担当することになったら、耐えられるだろうか。

人口問題を考える

地球の人口が、今日明日中に70億人を超えるとか。地球の許容量を超えるの超えないのという意見もあるらしい。

日本では少子高齢化の結果として、人口減少の傾向にあるが、アジアやアフリカでは増加しているため、世界規模では増えている。

日本では減少を憂いているので、この増加を喜んでいいのかと思えば、資源や食糧の問題が発生するので、必ずしも喜ぶべき現象ではなさそうだ。

日本で、少子高齢化といわれるたびに肩身が狭くなる。あんたのせいだよ、と言われているように感じるのだ。昨年から高齢者の仲間入りをした。年金も受給している。年金赤字の原因として言われるには、あまりに小額なので、反論もする気になれないのだが、やっぱりいただいてはいけないのかしらと思ってしまう。
少子化というのも、出産しなかった身にとって、責められているような気になる。それにしても、私のまわりには、結婚しなかった女性が多い。そして結婚しても子どもをつくらない、あるいはもっても一人っ子のみというカップルが多いのだ。

彼女らのほとんどが高学歴で、キャリアと呼ばれる職業についている。まだ現役なので、私と同じ感情をもつようになるかどうか、わからないが、しっかり働き、社会に貢献し、税金をきちんと納めて、さて年金受給の年齢になると、少子化の責任を問われるような言い方をされる、これには納得できない思いをするだろう。

現在の年金システムからいけば、少子化というのは、深刻な問題だとわかるが、人口規模の縮小については、生活規模を小さくすることで、カバーできないのだろうか。
差別と言われかねないけれど、アフリカで生活をしてみて、アフリカの子沢山は、貧困の大きな原因でもある。UNICEFやFAO、WHOなど、国連の機関が懸命に、子どもの命を守ろうとしているが、成長しての教育、職業の手当まで面倒みないと、貧困は続く。先進国にそこまでみていく余力はいまやない状態だ。

弟は、亡くなった母の年齢(90歳)まで兄弟そろって生きようねと言うが、さあ、体力、気力、そして諸般の事情がそれを可能にしてくれるだろうか。

香水

少しずつ身辺整理を始めると、思わぬ発見がある。今日は化粧品のところから、香水の瓶が数本みつかった。相当昔のものである。

香水に夢中になったのは、20代から30代にかけて。このころは、外国旅行(特にフランス)に出かけるとなると、香水のお土産がかならずついていた。自分でも買ってくるが、友人が海外に出るとなると、お土産に香水を期待していたものだ。

香りもおしゃれの一つ、大人の女性として必携のものだった。好みのブランドは、ジャン・パトゥーのジョイ(もっとも高価な品の一つ)、ディオールのディオッリシモやディオレラもさわやかな香りが大好きだった。

友人たちから頼まれて買うのは、シャネルのナンバー5、ナンバー19、ジャン・パトゥーのミル(千という意味)、あるいはバラ・ベルサイユ(ベルサイユの舞踏会)などであった。

このような名前の香水はまだ存在するのだろうか。ディオールなどはポワゾン(毒)などを出しているし、もう新しいものについては、全く通じていない。消え去ったものも多いだろう。

若いころは、しきりに気取って、TPOに合わせた香りをと、何種類か香水をそろえていたが、結局、仕事場と自宅の往復ばかりで、TもPもOも、関係なかった。香水より、eau de parfum(オー・ド・パルファン)という、オーデコロンと香水の間のものを多用していたものだ。

いつのまにか、香水を使わなくなってしまった。南仏には香水の生産地で有名なグラースがある。何度も訪問したけれど、町に近づくだけで、鼻が馬鹿になりそうだった。もうブランドにこだわらず、バラやスズランといった花の香りを主に選ぶようになった。

この山の中では、香水などつけてはいられない。つけていると、蜂につきまとわれる。大変なことになる。それでしまい込んだままになっていたようだ。捨てるにはモッタイナイ。さあ、どうしましょう。まずは今日のお風呂に数滴たらすことにしよう。

言葉狩り

このごろ、言葉を使うのがこわくなった。外国語でもないのに、自国語の日本語を、適切に表現できなくなったような気がしてならない。それでいて、言葉を仕事としているのだ。書いたり、話したりだが、本意がなかなか通じないというのか、うまく表現できない。

年齢とともに、さっとことばがでなくなったこともある。もっと語彙は豊富であったはずなのに、とあとになって、歯ぎしりしたい思いになることがしょっちゅうだ。
だから、政治家の発言が問題になると、責めるより先に、気の毒にねと思ってしまう。発言のバックグラウンド、前後の発言、なにもわからないままに、一言の表現が問題にされる。人っ子一人いない町を「死の街」と言ってはいけないが、「ゴーストタウン」ならいいとか、あるいはブラックかもしれないが、ユーモアのつもりで言ったことばが批判される。日本の政治家はユーモアがないといつも言っているメディアなのに、その許容範囲かどうかは問題外のようだ。

などと、理解者のようなふりをして、相当辛辣に言葉狩りもしている。大嫌いな言葉、それは芸能人がいう「お仕事」、「お友達」、「一般の方」がある。自分の仕事に「お」をつけるなんて、と怒っている。芸能人がそれ以外の職業の人と結婚する時、「お相手は一般の方なので」などと言うのをきくと、芸能人は特殊な方なの?と聞きたくなる(匿名性が許されない点では、特殊な世界なのであろうが)。

「やる」と「あげる」の使い方、動物や植物に対しても、「あげる」を使うこのごろ、こうなると、人間様に対しては「たてまつる」でも使わないと、バランスがとれないような気になっている。

「させていただく」と「~したいと思います」もイライラする。「させていただく」と言えば、謙譲になっていると思っている人が多すぎる。「法案を提出させていただく予定です」などは「法案を提出する予定です」でいいはず。「お詫び申し上げたいと思います」は、本来お詫びしたくないけど、仕方なくというふうにとれる。「お詫び申し上げます」ですむのに、と思ってしまう。

「わたし的には」など、なんでも「的」をつけるのも気分を害する表現だ。「私としては」と言えばいいのよ、と助言したくなるが、言葉は変化して当然なのだそうだ。

だから、それに慣れるまで昔タイプは苦労する。古典の文章がとてもなつかしくなる。今日はラジオで、「論語を読む」といった内容の放送を聞いた。「子曰く、うんぬん」のすっきり、すんなり耳に入ること、古い世代の人間であることを実感した。


納税の意思

ギリシャの信用不安も、26日のEU首脳会議で、一応避けられそうな雰囲気になってきた。ギリシャ国内もこれで落ち着くのだろうか。
報道の中で、増税につぐ増税で、これまでの収入では足りず、昼間と夜、2つの職場で働くというケースをみた。これは収入の点だけで取材していたが、納税額はどのくらいあるのか、それをギリシャ国民一人一人に聞いてみると面白いのではないだろうか。

ギリシャの納税システムが、どうなっているのか知らない。フランスでは給与所得者も、自分で申告書を書いて、税金の申告をする。日本のような、源泉徴収のシステムはない。おそらくギリシャも自己申告のやり方をとっているのではないだろうか。

取材対象者が正直に申告しているのかどうか、推測で言うのはいけないのだが、国民のほとんどが過度の節税をしているはずだ。乗客を何人ものせて、各人から料金をとるタクシー、領収書を出さないお店やレストラン、脱税もしているはずだ。

報道をみると、彼らの怒りは、税金を納めても、政治家や一部の金持ちが使ってしまうということにあるようだ。ギリシャにはとてつもない金持ちがいる。オナシスもその一人だったが、日本で考えるスケールと違うようだ。そんな金持ちたちは、収入のほとんどを外国へ逃避させ、ろくすっぽ税金は納めないらしい。政治家の腐敗については、詳しくは知らない。

大なり小なり、各自の規模にあわせて、脱税や節税に励んでいる国は、他にもイタリアがある。この国もギリシャ同様に信用不安に陥っているのだ。

ちりもつもれば、だと思うが、私もずっと小額ながら、納税は続けている。勤務先が源泉徴収をしないところだったので、毎年3月には、税務署に赴き、相談をしながら、申告書を作成する。節税はする。しかし脱税はしない。なぜなら、脱税をしたという罪の意識があれば、1年中、すっきりしないからだ。びくびくしていなければならない。納税額たるや微々たるものだが、これも「税をとられる」と言った時、「税」は「とられる」ものではなく、「納めるものだ」とたしなめてくれた親の教えかもしれない。

TPPは黒船襲来?

TPP:Trans Pacific Partnershipの交渉に参加することについて、賛成、反対の議論が沸騰している。
反対派のメインは、農業と医者らしい。賛成派は工業関係のようだ。

何がどういいのか、悪いのか、ちっともわからないのだが、市場開放になるらしい。市場開放といえば、以前保険の分野が開放されている。昔は、入院保険というのはなかった。差額ベッドというのは存在していたと思うが、お金がある人は、個室とか、2人部屋とか、差額の必要な部屋に入り、手持ちのお金で払っていたのだろう。だからお金持ちだけに許されることだった。

今や、入院保険があり、1日5000円とか1万円保障とか、銘打っている。特段お金持ちでなくても、一般の人でも、保険にはいっていれば、それなりの入院費が保険で保障されることになっている。最初は、日本の生命保険会社が生命保険の付帯条件として、入院保障をつけたりしていたが、今では、ほとんどが外資系の会社ばかりが宣伝し、おそらくは加盟率も外資系のほうが多いのではないだろうか。

このごろでは、医療保険に、癌治療のための最先端医療技術のための保険も加わっている。昔を知っている人間としては、なにか納得できない。保険にはいっているかどうかで、医療が受けられるかどうかが決められる。はいっていなくても、費用を払えるだけの財力があれば問題はないのだが。本来なら、国の社会保険、つまり健康保険で賄ってもらえるべきなのではないか、と思うのだ。

今でも医療保険に加入しているかどうか、つまり保険料が払えるかどうか、で受ける医療が変わってくるのだが、TPPに加入すると、医療部門での格差が広がるのだという。これ以上に広がるというのは、どうなるのだろう。

TPP反対を唱える人たちは、これまで、国の厚い保護を受けていた分野に属しているような気がする。農業、医者ともにそうだ。

だからといって、日本の農業がつぶれてしまうのは困る。農業地帯に住んで、野菜作りを少しやってみると、日本の集約的、手のかかる、目の届く農業が高くつくのは当然という気がする。それにアメリカの農業のように、遺伝子操作の行われた農作物が入ってくるかとおもうと、怖い気がする。

江戸末期、黒船が現れたとき、政治面でのショックはよく知られているが、産業面では、庶民の生活ではどうだったのだろう。
今回のTPP、賛成とも反対とも、意見を言えない(無知ゆえに)立場だが、国家100年の計で考えていただきたいな。

死刑存続派?廃止派?

昨夜、テレビ朝日のTVタックルを見た。死刑廃止か存続か、の重い議論が、作られた激論のなかで、中途半端になされていた。番組のテーマでは、廃止か存続かの前に、法務大臣が死刑を命じる書類に署名しないから、死刑が執行されないことも扱われていた。

国民新党の亀井静香氏が、強面な顔にもかかわらず、廃止論者であることは、以前から知ってはいたが、やっぱりちょっと奇妙な感じがした。
つれあいは死刑存続派である。私ははっきり答えられないでいる。以前、フェミニズムの運動に参加していたころは、人権主義者も標榜していたので、死刑反対だった。とくに1982年、フランスで、社会党政権がうまれ、100の約束のなかにあった死刑廃止を実現したとき、日本でも死刑という野蛮な刑は廃止すべきであると固く信じていた。

カトリックの信者としても、死刑という刑罰に対して、拒否反応は強い。しかし、あまりの凶悪犯罪については、その犯人について、死刑にかわる無期懲役、あるいは終身刑で妥当なのだろうか、と疑っている。とくに年若い殺人者については、犠牲者にかわって、罪を償いながら生きていくようにするのがいい、というような意見がある。罪の償いというのは、どうすればできるのだろうか。

一生、刑務所の中に閉じ込められていれば、それが罪の償いになるのだろうか。日本の刑務所がどんなものか、私は知らない。だからそこに閉じ込められていることが、はたして刑罰に相当するのか、判断できない。

アメリカの刑務所に、殺人を犯し、終身刑に処せられた郷隼人という日本人がいる。朝日歌壇によく登場される。彼の詠む歌の、詩情の豊かさに、本当に彼が殺人を犯したのか、疑わしくなることもある。彼の歌を読むと、望郷の思いも強く、異郷の地で、生命を終えなければならない罪の重さを感じる。

あるいは、もうフランスでもないけれど、パピヨンと呼ばれた罪人が、仏領ギアナの離れ島の刑務所に収監され、その居住条件の悪さ、気象条件の厳しさなどを知ると、それはそれで犯した罪の贖罪となるのだろうと思ったりもする。

死刑の存在が、犯罪のブレーキとなるのかどうか、あるいは、冤罪の可能性を考えれば、死刑は廃止すべきものなのか、堂々巡りで結論はでない。

カダフィの死

金曜日以来、ニュースのたびにカダフィの死亡時の映像が流れる。日本の放送での映像と、外国メディアのそれとは同じではない。入手した映像の違いなのか、編集による違いなのかはわからないが、外国メディアの物の方が詳しい。

反カダフィとして、政権を担当する国民評議会の代表は、「カダフィは死亡した」とだけ言い、どういう形で死亡したのかには触れない。映像をみていると、興奮した兵士あるいは群衆によるリンチと銃による射殺とみられる。
この殺害について、国連や西欧の団体は、問題があると批判している。

カダフィの最後をみていると、デジャヴュという形で、イラクのフセインがつかまった時の光景が思い出される。あの時は、たしか、アメリカ軍の兵士によって確保されたように覚えている。イラク人民ではなく、アメリカ軍だったから、命をとられることまでいたらず、裁判にかけられた。

カダフィの場合、逃亡中、自国の解放軍によってとらえられた。国民にとって、憎んでも憎んでもたりないほどの、恨みの対象だったはずだ。冷静に生かして、裁判にかける、ということが頭にあったかどうか、もしあったとしても、少しは痛めつけて、恨みの一片くらいはらしたい、その結果、少しの血をみて、もっと興奮してしまった、ということもあり得るだろう。

BBCでは、遺体がコンテナーの中に安置され、それを見るため、民衆が行列をしている場面をみせていたし、遺体そのものも写していた。
イスラムでは、写真を撮られることをきらうと聞いていたが、遺体を写すという行為はどうなのだろう。

カダフィが殺されて、彼の42年間も闇に葬られたことで、ほっとしている人々が多いとか。フランスの政治家などにもきっといることだろう。
フランスにはFrancafrique(フランサフリク)という閥がある。アフリカと利害関係(ほとんどが利のみだが)をもつ人々の閥だ。古くはミッテラン大統領の息子や、パスクワ元内務大臣などが、アフリカ諸国との密接な関係を問題視されていた。つまりはアフリカへの援助がキックバックされていたのだ。
アンゴラゲート(アンゴラとのスキャンダル)、ジスカール・デスタン元大統領のダイヤモンド事件、表にでたもの、隠れたままのもの、スキャンダルは数しれない。

きっとカダフィとの間にもそんな関係があったに違いない。それを暴露されないですむことで、安堵した人も多いだろう。

アラブの春というのは、ベルリンの壁の崩壊や、ソヴィエト連邦の分裂などと同様に歴史の大きな転機であろう。もっときちんと見ていかなければ。

汝の隣人を愛せよ

日曜日の今日、教会でのごミサでは、マタイの福音書がテーマだった。有名な言葉「汝の隣人を愛せよ」がある部分である。
この前には、{「心をつくし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」}となるわけだ。

今日は「愛」がテーマで、同じく読まれた「出エジプト記」では、寄留者、寡婦、孤児を虐待したり、圧迫してはならない、とある。

「愛」はキリスト教のメインの教えであるけれど、この「愛」がどうして実現しないのだろう。キリスト教徒になってそんなに長く(15年)はないけれど、ごミサで「愛」を説かれると、反動として、もどかしい思いがでてくる。
キリストの教えは、永遠のテーマ、決して到達しないテーマなのかもしれない。

家庭の中でも、ご近所でも、友人との間でも、なかなか「自分のように愛」することは難しい。つれあいに対してすら、「愛」や「寛容」の気持ちが失せてしまうことがある。もちろん一番大切な人ではあるけれど、「自分のように愛」しているか、と言えば、「自分の次に」というのが正直なところだろう。

日本では人口の1%にも満たないキリスト教徒であるが、イタリア、フランスなどはキリスト教、そのなかでもカトリックが主流となっている。EUにトルコの加盟がなかなか認められないのは、トルコがイスラム教の国であることが理由の一つと言われている。

それだけキリスト教が勢力をもっているにも関わらず、現代において、「愛」が政治のなかに感じられないのはどうしてだろう。物事の決着は、武力や経済力によってはかられる。
先先代の首相は「友愛」という言葉を使っていたが、どこに「友愛」があったのか、わからないうちに舞台を去られた。
「愛」は難しい。

ネポティスム(縁故主義)

昨日、BSフジの報道番組で、曽野綾子氏は、カダフィ亡きあとのリビアは、やはり部族の抗争がおきるだろうと辛口の予想をしていらした。

カダフィ死亡が確認され、国民評議会は政治体制の再建を意図しているが、数ある部族とグループ間の意見の相違が激しく、政府を作れないでいるという。

エジプトでも、ムバラク大統領をその地位から追いやったのに、まだ新体制ができないでいる。ここにも、いろんな意見の相違があるからだ。

暴君を放逐するまでは一枚岩でいっても、いったん成し遂げられると、各自(各部族)の利益優先となる。この傾向は、アラブのみならず、アフリカでも同様だ。

ツチ族とフツ族の抗争はその最たるものだろう。国政レベルでも激しいものがあるが、小さなところで、キンシャサ在住時代、いくつかの経験がある。まず、たとえば誰かを雇い入れると、その縁故で固めていくことになる。それは、共同責任をとらせるという意味からでもある。これは縁故主義の逆利用ともいえる。

彼らの親族あるいは部族、同じ地方出身者の紐帯の緊密さは、その意識が薄らいだ日本人には信じられないほどである。彼らにとって、その紐帯を軽んじることは、一種の罪になるのだろう。
ある時、わが家のコックが休んだ。電話などないところだから、朝10時ごろになって、どういう経緯で連絡があったかわからないが、執事(と称している)が休むそうだということを告げに来た。

それから1時間後、コックが玄関に現れた。いつもは勝手口を利用しているのが、玄関というのは異常だ。私に会いたがっているというので、玄関へ行ったのだが、伯父が死亡したという。弔意を表し、その週は特別な催しも予定していないから、お休みしてもかまわないと告げた。

コックは、香典というのか、いくばくかの弔慰金を求めている。伯父さんに対してまではできないと断った。親、祖父母、子どもと直系の親族には配慮するけれど、伯父・伯母や従兄弟のレベルまでは慶弔のめんどうはみきれない、どこかで線を引かなければと、言われてきている。

異常に思えるほど、コックは強硬に要求していた。今から思えば、きっと雇用主からの弔慰金をもってかえらないと、身内から責められたのかもしれない。しかし、こちらにしてみれば、一度それを許せば、どこまで広がるかわからないという思いもあって、こちらも突っぱねる。

アフリカの、コンゴの事情を無視してしまったようで、後口の悪い出来事だった。日本に帰ってからは、「郷に入れば、郷に従え」でいくばくか渡せばよかった、とも思うが、やっぱり、アフリカの常識は世界の常識ではないともいいたい気持ちにもなる。

日本にいると、部族抗争はなく、地域紛争もなく、国内で武力が奮われるということもなく平和なものだが、ネポティスムは世界ではまだまだ強力な習慣なのだ。




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