死刑存続派?廃止派?

昨夜、テレビ朝日のTVタックルを見た。死刑廃止か存続か、の重い議論が、作られた激論のなかで、中途半端になされていた。番組のテーマでは、廃止か存続かの前に、法務大臣が死刑を命じる書類に署名しないから、死刑が執行されないことも扱われていた。

国民新党の亀井静香氏が、強面な顔にもかかわらず、廃止論者であることは、以前から知ってはいたが、やっぱりちょっと奇妙な感じがした。
つれあいは死刑存続派である。私ははっきり答えられないでいる。以前、フェミニズムの運動に参加していたころは、人権主義者も標榜していたので、死刑反対だった。とくに1982年、フランスで、社会党政権がうまれ、100の約束のなかにあった死刑廃止を実現したとき、日本でも死刑という野蛮な刑は廃止すべきであると固く信じていた。

カトリックの信者としても、死刑という刑罰に対して、拒否反応は強い。しかし、あまりの凶悪犯罪については、その犯人について、死刑にかわる無期懲役、あるいは終身刑で妥当なのだろうか、と疑っている。とくに年若い殺人者については、犠牲者にかわって、罪を償いながら生きていくようにするのがいい、というような意見がある。罪の償いというのは、どうすればできるのだろうか。

一生、刑務所の中に閉じ込められていれば、それが罪の償いになるのだろうか。日本の刑務所がどんなものか、私は知らない。だからそこに閉じ込められていることが、はたして刑罰に相当するのか、判断できない。

アメリカの刑務所に、殺人を犯し、終身刑に処せられた郷隼人という日本人がいる。朝日歌壇によく登場される。彼の詠む歌の、詩情の豊かさに、本当に彼が殺人を犯したのか、疑わしくなることもある。彼の歌を読むと、望郷の思いも強く、異郷の地で、生命を終えなければならない罪の重さを感じる。

あるいは、もうフランスでもないけれど、パピヨンと呼ばれた罪人が、仏領ギアナの離れ島の刑務所に収監され、その居住条件の悪さ、気象条件の厳しさなどを知ると、それはそれで犯した罪の贖罪となるのだろうと思ったりもする。

死刑の存在が、犯罪のブレーキとなるのかどうか、あるいは、冤罪の可能性を考えれば、死刑は廃止すべきものなのか、堂々巡りで結論はでない。

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