誤解と既得権

タイトルの誤解と既得権に何の関連性もないのだけれど、これまで書いた文章のなかに誤解を招くような部分があったという指摘をうけたので、ちょっと付け加えておきたい。

一つは昨日書いた「行きたいところ」で、今、行けない事情として、つれあいの健康状態に触れた。昨年は二人揃ってフランス3週間の旅行を楽しんだのだが、今年は春あたりから体調不調を訴えることが増えたのだ。といっても日常に不都合はなく、今年も畑仕事をしてくれた。
 このところ、大学病院で検診を受けているが、治療していただければ、体調も戻り、二人揃っての旅行なり、留守番なりが可能になるものと思っている。

次は、後期高齢者の医療費だ。大学病院での費用が70円ですんだということを書いていたら、そんなに医療費が安いのかと言われた。とんでもない。国民健康保険料は、年金からけっこうな高額が、ばっちり引かれている。2か月で3万円以上は引かれている。年金から、このほか、介護保険料、個人住民税も引かれ、予定している年金金額そのものは受け取れないシステムだ。

年金自体も減額されるような話もあるが、それより前に、いろいろな課金が強制的に引かれている。否応なしだ。

既得権というのは、それを享受している立場の人間にはわからないものだ。それが長い期間にわたればわたるほど、既得権という意識はなく、自然発生的な権利と受け止めてしまう。
ギリシャの国民も、長く55歳から年金受給を開始できていたとすれば、その財源がなんであろうと、それは当然の権利で、諸外国から文句が出る筋合いのものではないと思っているのだろう。

私たちの既得権というのは何だろうか。年金を受給している。これにしても、幾多の改革を経て、厚生年金部分は60歳からだが、国民年金部分は65歳まで待たねばならなかった。この制度は、始まった当時は、国民年金の受給を遅らせられたと思っていたのだが、今では既得権になっているようだ。いまや68歳になるかもしれないからだ。

年齢を重ねると、受け取るものが既得権になりがちだ。しかし、その濫用といわれると、違和感がある。国の制度として議論を重ねた結果のことなのだろうに、と思うのだ。既得権うんぬんと責める場合には、それが発生した当時の状況説明もしてほしい。そしてそれが現状とどのようにそぐわなくなったかを分析して、どう訂正すべきか、きちんと説明してくれないと、受益者として、納得いかない。

年金と税の一体改革がどうしても必要で、その改革のために、年金受給者も身を切る覚悟(減額)が必要ということなら、それが納得できるものなら、身を切り、血を少しは流す覚悟はあるのだが。

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