我が家のエネルギー計画

第5グループにはいる我が家は、今日も計画停電からまぬがれました。3日続けての全日通電で、ちょっと気が緩んだようです。朝は雨だったので、新聞は車で行ってしまいました。

日本全体のエネルギー問題については、政府に考えてもらうことにしても、我が家のエネルギー問題はつれあいと私で考えなければなりません。

実情分析です。
(その1)調理機能:昨年9月、築17年たち、プロパンガスを利用していた調理台があやしくなってきました。掃除不得意(きらいなだけ)の私、ガス台が汚くなり、炎の色も不安定なので、変えることにしました。かわいい坊やがエコキュートを宣伝しています。若い男性に目のない私(ちょっと若すぎるけど)、近所でオール電化ハウスも見学して、とりあえず台所だけ電化することにしました。今回、計画停電ということで、はやまったかな?と思ったり。

(その2)暖房:メインの暖房は灯油のファンヒーターです。極寒の時期は月に300リットルは使います(給湯も兼ねて)。17年前、建てるとき、暖炉や薪ストーブも考えました。しかし、直火を使うことでの火事や、薪の手配、灰の始末、煙突掃除、など付随する問題を考えて、これは除外しました。今は、薪ストーブが流行で、新築の別荘は、ほとんど煙突がついていますから、きっと暖炉なりストーブがついているのでしょう。

 私もここに定住するようになって、薪ストーブのもつ雰囲気にあこがれ、とりつけを考えましたが、つれあいの賛同が得られませんでした。定住者は1年のうちの7カ月は暖房を必要とします。薪の材料になるナラの木など、周辺にたくさんありますが、これを切り倒したり、それを薪にするには、人に頼まなければなりません。これにも費用がかかります。売っている薪はとても高いです。

 建築の時ならともかく、あらたにストーブを設置するには、煙突用に穴をあけたり、床や壁を不燃材(耐火レンガ)で覆う、床を補強する、といった工事が必要になります。100万円はかかるだろうと言われました。

 練炭や炭を利用する。ここらのホームセンターでは練炭・バーベキュー用炭も売っています。母の遺品で、大きな火鉢もあります。火鉢に鉄瓶でもかけて、しゅんしゅんと沸くお湯の音を聞くのも風情がありそうですが、これで暖をとるには足りません。炭もけっこう高いし、2酸化炭素で中毒するかもしれません。

 メインのファンヒーターのほかの暖房器具は、扇風機風の電気ストーブ、オイルヒーター、電気カーペット、電気毛布、電気敷布、とほとんどが電気で、停電時には役に立たないことがわかりました。灯油のファンヒーターも停電になると使用できません。

 唯一、これでよかったのかな、と思ったのは、床暖房にしていなかったことです。したかったのだけど、イニシアルコスト、ランニングコストが高いので、とても手がでませんでした。

(その3)給湯・お風呂:灯油によるボイラーで給油します。クリーンなエネルギーの表現に魅かれて、夜間の電気を利用したシステムに変えることも考えましたが、大工さんが、まだ今のボイラーでもちますよ、お風呂場もいいタイルを使っているから、毀すのはもったいないよ、と言ってくれたので、そのままです。
 ただ、建築したとき、独身だったので、単身の使用で考えていました。大きなバスタブ、お湯は一人一人で変えて使う、そんな西洋風な入浴方法にあこがれて、追い焚きのできないお風呂です。いったんお風呂をいれると、続いて入るか、あとで熱いお湯を加えて調節します。お湯の再利用ができない、もったいないやりかたです。

エネルギー源の多様化をはかる会議を二人でしましたが、いまのところ、名案はでてきません。節約だけでしょうか。本当に寒い冬場、用事のない日は早寝・遅起でいこう、とつれあいは言います。老人家庭、ほとんど用事のない日ばかりですが、小学校の読み聞かせには6時起きが必要です。やめれば楽だけど、楽しみでもあるのだからと、私は反対しています。

ちなみに就寝時の暖は、湯たんぽを使っています。

砂上の楼閣

「山には山の憂いあり、海には海の悲しみが」という歌詞の歌がある。古い歌なので、御存知の方はある程度の年齢層だが。

私は山に住んでいる。しかし若いころは海辺に住むのが憧れだったし、三陸海岸は訪れてみたい場所だった。以前住んだマルセイユの近くには、リアス式海岸とかフィヨルドと呼ぶには規模が小さいが、入り組んだ入り江の連続する場所があり、カランクと呼ばれていた。

景色がよく、夏場にはよく訪れた。白い浜辺の海岸もいいが、山が海に迫った海岸を海側から見ていくのも楽しかった。三陸海岸は訪れたことがなく、いつの日かと思っていた。

しかし、この災害で、しばらくはいけないだろう。景色がよく、海の幸が豊富なこの地が、観光客を受け入れるのはずいぶん先のことになるだろう。

海辺が津波でこわいなら、山なら大丈夫か、それは言えない。今住んでいるところは高度1000メートルの山間地だが、浅間山噴火の危険はあるし、台風や大雨で、山崩れ、がけ崩れ、倒木、落石、などの危険があり、その結果の道路寸断や、通行不能、停電、断水など、いともたやすく起るだろう。

どこに住めばいいのか。どのような家屋にすめばいいのか、いろいろ考える。ここが安全ですと言われても、必ずしも住めるものではない。私たちはもう退職者として、住む場所を選ばなくてもすむけれど、それでも外国とも言われれば、身うちや友人の意見も聞きたくなる。

パオに住んで、いつでも移動可能なモンゴルの遊牧民のように暮らすか、ベドウィン的生活をするか、エスキモーのように氷上での生活を選ぶか、移動を簡単にすれば、こういった喪失感はもたずにすむのかもしれない。

いずれにせよ、これまでの定着したと思っていた暮らしは、砂上の楼閣にすぎないことがわかった。

信州軽井沢へ

昨夜は午後6時40分から8時45分までの停電でした。早めに夕食をすませ、ラジオに電池をいれて、NHKにセットし、大きなロウソクと懐中電灯をもって、寝室のベッドに入りました。6時20分からという予告だったので、20分ほど、明かりもあり、テレビもみることができました。

40分にプツンと電灯、テレビが消え、真っ暗です。あわてて懐中電灯をつけ、ろうそくをともしました。それからあらためて電気が通るまで、ラジオの地震関連放送をききつつ、何もできません。
昔の人はろうそくの明かりで読書をしていたなんて、すぐに目は疲れ、悪くなるのは目に見えています。目をつぶれば、おのずと眠くなります。うつらうつら、ラジオの放送も耳にはいっているような、抜けていくような、そんな時間がどれだけ過ぎたのか、わからないうちに、プツンと音がして、電気が通りました。

今日は土曜日で、1日中停電はないとのこと、午後から軽井沢へいくことにしました。関東地方ではなく、中部地方になります。ガソリンもあるだろうし、食べ物もあるはずだ、その確認もあります。

今日から鬼押し出しが開業しています。六里ヶ原のパーキングもあいているようですが、車は見えません。早朝に走っているように、車がみえないのです。中軽井沢への道の途中にガソリンスタンドがあります。給油している車があったので、私の車もいれました。1リットルあたり152円と出ています。村なら149円ですが、3円の差をとやかく言えません。15リットルを限度にいれてくれるとのこと、やはり満タンは無理のようです。でも15リットルいれただけで、安心感はでました。

 そのあとつるやというスーパーに行きました。大きな駐車場ですが、ほとんど満杯です。店内は明るく、いつもと同じ雰囲気です。
野菜はたくさんあって、いつも通りです。魚も北陸からのサバはありませんが、先週より品ぞろえがあります。結局、お米、もち、カップめん、などの棚が空っぽでした。私も味噌、しょうゆを買い加え、いつもの1週間分より8割がた、金額が大きかったです。その中には、放射性物質に有効とかいう、海藻類としてひじきや昆布も買いました。常々、ストレスを感じると、昆布をしゃぶるのが好きなのです。らうす昆布はちょっとお高かったのですが、3つ買ってしまいました。

いつもなら中軽井沢と北軽井沢、草津を結ぶ145号線や有料道路は、ひっきりなしに車が通っています。でも今日の静かな事、3連休の初日とは思えません。
アウトレットもバーゲンをやっているのに、ひとがとても少ないとか。スキー場も営業をやめたとか。

旧軽や駅周辺までまわって、様子をみたい気もしましたが、ガソリン倹約中でもあり、そのまま帰宅しました。
有料道路の料金所の人たちも暇そうでした。ツルヤで会った軽井沢在の友人が、大変だったら疎開していらっしゃいと言ってくれました。峠をこえた隣町は平穏です。

ガソリンについて

いつになったらガソリンが自由に買えるようになるのだろう。その予想がつかないので、車にのれないでいる。
今日で3日間、車にのらなかった。特別用事がなかったからだし、新聞とりは徒歩でいったからだ。

友人はガソリンの価格を300円ほどにすれば、本当に必要なひとだけが給油するのではないか、そうすれば需給のバランスがとれて、ガソリン不足はなくなるのではないか、という。

しかしそうだろうか。もちろん、私たちは不要不急でも車に簡単に乗っていた。それはあるが、公共交通機関のないド田舎や、わたしたちのような山間部に住んでいる人間にとって、車は必需品だし、これがないと動きがつかない。

新聞とりも3日続くと、高齢者の我々にとって、気持ちのいい散歩とはいえなくなる。疲れがでてきた。新聞を読まなければいいのだが、この状況では、新聞は読みたい。

もう食料品も底をついてきたので、買い出しにも行きたい。来週になると、仕事の予定もある。鉄道を使えば?と言われても、駅まで8キロ、そしてその頼りの吾妻線は3日連続で運休だ。

村のガソリンスタンドの車に出会った。顔見知りの運転手さんに合図して、停車してもらった。「ガソリンはありますか?」と聞くと、「まあね。だけど、残りが3分の1以下の車に、20リットルだけ入れることになっている」という。灯油も100リットルの限定だそうだ。

ほっとした。値段は聞かない。これが200円でも300円でも、必要なら入れてもらわざるを得ないからだ。
もちろん、値上がりしたまま、1年も続くとなると困るけれど。

明日は軽井沢へいく。ここは長野県、中部地方になる。また別世界のようだ。明日報告する。

停電・断水

今日の計画停電は2回予定されているのだろうか。昨日の村役場の無線放送では、朝6時40分からということだった。昨日から真冬並みの寒さ、最低気温はマイナス13度の予報が出ていた。朝の6時40分では、まだマイナス気温である。水道管に通電しているが、停電になると、たちまち凍ってしまう。

解除になるまで朝寝しようと思っていたが、とんでもない。それまでに部屋を暖め、水道を使っていかないと、凍って、破裂するかもしれない。怠け者ではいけないのだ。
と、緊張して早起きをしたが、幸い、停電はなく、平穏な朝であった。気温は日中もまだマイナスだ。

2時10分から5時10分まで計画停電が行われると、今、村役場の放送があった。2回も予定されているとはしらなかった。

こうして停電がおきると、10年以上前、アフリカにいたときのことを思い出す。停電・断水は日常茶飯事だった。そして計画停電などではなく、無計画、無予告、無期限の停電と断水だった。

「水と安全はただ」と思うような日本から、内戦・経済危機・食糧不足・貧困・疾病など、ありとあらゆる不安材料を持っている国への赴任、心細くて仕方ない。そしてそこに停電と断水の不安も加わった。
当初、発電機もないので、もろに影響をうけた。停電は日中のこともあり、夜中のこともあり、時を選ばなかった。

どのように克服していったのか、もう忘れてしまった。時間も長く、時には10時間を超えることもあった。何を食べたのか。飲料水はボトルの水があったので、それを飲んでいたのだろう。食糧については、きっと非常食を食べたのだろうが、今になっては定かな記憶がない。

断水の準備としては、3つもある浴室のバスタブをすべて満水にして備えていた。ところが、水道水は茶色で、長くためおくと、ぬるぬるしてきたりで、気持ちが悪くなる。そのうち、1つだけにするとか、だんだんに準備がゆるくなっていった。空になったボトルに水をため、大量に準備するのは役に立った。トイレのタンクにいれるにせよ、ボトルからのほうが、効率がよかったからだ。

いつ終わるかわからない停電、赤道直下の暑い気候のなかで、冷房はとまり、虫や蚊をおそれて窓は開けられず、汗だくになっていたことは覚えている。

冷凍庫は開けなければ数日は大丈夫ですよ、といわれても、中の食べ物を出さなければ、食べるものはない。いづれにせよ、半分解けてしまったような食品はすぐに食べなければ、と長い停電のあとには、御馳走を作ったものだった。

今のような予告のある停電、予告が直前であろうと、これくらいの不便さはしのいでいかなければ。被災者の方たちの状態をみると、またアフリカでの経験を思うと、たいしたことではない。

こちらも吹雪でした

今日から冬に戻ったような寒さ、朝8時は0度なのに、日中はマイナスという逆転温度でした。ようやく咲いた福寿草、クロッカスも花が開かず、スノードロップは雪の中に隠れてしまいました。

昨日決心したガソリン倹約のため、停電が始まった9時45分、新聞をとりに出かけました。雪はちらついているのですが、ベランダからみる空模様は明るいので、帽子もかぶらず、出かけました。方向は北をむいてです。

我が家の南側は浅間山、北側は白根山がみえます。今日は白根方面は黒い雲におおわれています。きっとふぶいているぞ、と心配そうにつれあいが言います。

途中から雪の降り方がひどくなってきました。ときどき冷たい北からの突風が吹きます。遭難するかも?とつれあいが言いました。老男・老女遭難と出るかな?と言うので、老男はいいけど、老女はやめて。せめて熟女にして、などと冗談を言いながら、「引き返す勇気が必要」という山での教訓と、「せっかく決心したことを、やり遂げよう」という気持ちがしのぎ合います。

行きはよいよい、帰りはこわい、で帰り途には吹雪になってしまいました。髪に積ってきた雪は、すぐに凍っていきます。通る車にのせてもらおうかな、と思っても、そういうときは車が通りません。

雪にまみれて帰りつきました。家の中は停電が続いているので、うす暗いです。暖房もついていません。いそいで1台だけある灯油のストーブをつけて、ジャケットにくっついた雪をベランダで落とします。水滴が滴り落ちます。

せっかくとってきた新聞ですから、つれあいは「蛍の光、窓の雪」とばかり、窓の近くで、雪の白さをたよりに読み始めました。「あなたは明治の人だから、雪明かりで読むのは慣れているでしょう」というと、「明治じゃない、昭和だ」と怒っています。

電気が戻ったのは12時半でした。久しぶりに往復4キロを歩いたので、おなかはぺこぺこ。急いで昼ごはんを用意して食べました。

つれあいは1日で懲りたと言っています。被災者への連帯のあかしとしても、続けるべきと私は主張しているのですが、この寒さ、もし明日も雪だとちょっと迷います。

明日の停電は朝6時40分から9時40分までだそうです。朝寝を楽しむことになりそうです。

下界に降りて

山の中から市街地に降りました。県庁所在地の前橋で仕事です。仕事は1時すぎからですが、12時前に到着しました。というのは、前橋の計画停電が12時20分からと聞いていたからです(12時40分からと訂正されました)。
仕事場の裁判所は、廊下はうす暗く、照明がおとしてあります。働いている人は厚着しています。暖房がはいっていないのです。エレベーターも動いていません。

「停電が始まれば、うす暗いかもしれませんが、なるべく窓際にお座りいただいて」と申し訳なさそうな担当者です。
幸い、仕事中、停電はなくて終わりました。暖房がないので、体が冷えて、トイレにもいきたくなります。もし停電だったら、水洗トイレも使えないわけで、本当にほっとしました。

帰途、できればガソリンをいれたいなーと思っていたのですが、いつも使っているセルフサービスの安価を誇るスタンドにはたくさん車がとまっています。ラッキー、あいているのかなと思ったら、ロープが張ってあります。たくさんある車はトラックが主でしたが、どうも次の入荷をまって待機しているための駐車らしいのです。

2時間の運転中、すべてのスタンドが閉まっていました。最後の最後にあいているスタンドをみつけて車をいれました。「うちのカードを持っていますか?」さいわい、その店ではありませんが、会員になっているチェーンでした。「持っています。満タンでお願いします」「10リッターだけしかおいれできません」

やっぱり!!!それでも10リッターいれられてほっとしました。そして決心しました。これからは毎朝の新聞とり(家から2キロの集落までしか配達されない)も歩きましょう、郵便局へも週1回だけにしましょう(6キロ)、家にこもってすごしましょう、と。

途中、渋川が計画停電中で、交差点に警官がでていました。


こんな少ない体験だけでも、今回の混乱を垣間見た気がしました。混乱を増大させないためにも、明日からは山の中にこもります。気持ちだけでも被災者の方に寄せながら。

行儀のいい日本人

引退した、田舎住まいの老人は、計画停電も、十分克服可能である。しかし、この交通混乱にあって、なんと日本人は行儀がいいのだろう。

今日は交通手段が混乱した。鉄道各線は運休やら、路線短縮運転やら、各駅停車のみとか、もうヴァラエティ豊かである。テレビのテロップをみていても、追いつかない。

その変則ダイヤも、今朝、始発と同じころに決められたとか。すべては東京電力の計画停電スケジュール次第だからである。

閉められた駅のシャッター、通れない改札口、少ない駅員に問い合わせをする姿、おとなしい。あきらめなのか、すぐに引き下がっている。駅員に文句をつけても仕方ないことを承知しているのだろう。

今日、ホームセンターへ行った。昨年、調理器具をガスから電気に変えたため、計画停電で調理ができなくなる可能性があるからだ。ガスボンベを買いたかった。まず、駐車場へ入るのが一苦労だ。といってもけっこうすんなりはいったのだが、止めるスペースがない場合、運転席に残って移動できるよう、つれあいだけが店に入る。

ほんの1分で戻ってきた。ガスボンベはなく、レジのところは長蛇の列で、店員に聞き合わせもできないという。
1日中停電というわけではないし、ボンベがなくても生活はできるから、と購入をあきらめて駐車場を出た。

ボンベを買おうというのはわかるけれど、トイレットペーパーを買いだめするのはなぜだ?とつれあいは疑問を呈する。私にきかれてもわからない。オイルショックの時もそうだったじゃない、というと、その時の因果関係もわからなかったという。

生活必需品が欠乏するかもしれないでしょう?と言うと、東京が地震でつぶれたわけじゃないのに、と反論する。そうなのだ。灯油やガソリンが欠乏するというのは、中東の不安定なゆえに輸入が減ったり、この地震で貯蔵タンクが焼失したこともあって、理解可能なのだが、トイレットペーパーに結びつく理由がわからない。
でも売り場になければ、困る品である。それでも買い物も整然としているし、略奪、打ちこわしなど起きない。

これが日本、と誇らしい気持ちにもなる。しかし、長引けばどうなるのか。新たなパニックの素因が生まれれば、いつまでも秩序よく行動できるのだろうか。
新たなパニックの素因には、原発の事故もあげられる。福島第一原発の1号、3号基に続いて2号基も危機的状態らしい。フランスからも心配して、逃げてこいと言われている。逃げる手段があれば、逃げたいな。

原発を東京に

原子力発電所(原発)を東京に、というのが、原子力発電に反対していた時のスローガンだった。地産地消が流行の今、エネルギーも東京で必要な量を、東京で発電すれば、問題がなくなるのでは?というのが論拠であった。
当時、原発は安全で、かつ発電時にCO2を発生しない、エコな発電所であるという、電力会社側の説明だったから、そんなに安全なら、東京でも作ればいいと言っていたのだ。原発には冷却水が必要で、海岸か河川のそばが立地条件になる。東京には多摩川、荒川があり、東京湾があるではないか、と言っていたのだ。

そんなことを言えなくなってしまった。この福島原発の事故は、現在では第一発電所一号基の半径20km以内の住民が避難を指示された。

もしこれが東京だったらどうなるか。避難すべき人口数は現在の比ではないだろう。避難した人々を収容する場所があるのか、パニックは生じないだろうか、といろいろ考える。

東電や政府関係者は事故を正直に評価しているのだろうか。過小評価していないのだろうか。

30年くらい前、フランス電力公社(EDF)の年次報告書を翻訳したことがある。そのとき、accidentとincidentという言葉があった。accidentは事故、それではincidentは辞書でみると「偶発事、困った出来事、(重大な結果を招きかねない)偶発事件、トラブル}などとなっている。accident以前の困ったこと、すなわち、不都合とか不具合ということだ。

今朝の新聞をみると、原発事故の評価尺度というのがあって、レベル1からレベル7に分かれ、レベル3までが異常な事象、それ以上が事故となっている。異常な事象がincidentに相当するわけだ。程度の問題ではない。事故となれば報告の義務がでるが、異常な事象程度であれば、報告しなくていいとか、なにかあるらしい。それで、事故ではなく異常な事象に組み入れるというケースがあるとか、ないとか。そんな記憶を引き出すような関係者の説明だ。

フランスでは原子力発電が、全発電量の80%ほどを占める。国民にも受け入れられている。だから日本でも、となったとき、日本では地震が多いから、と反対派は危惧していた。万全の予防措置をとる、相当の大地震でも大丈夫だ、と説得された。

しかし、常に想定外の事故は起きる。それが人的なものであれ、自然災害によるものであれ、事故は起きる。
人間の想定なんて、限界があるのだ。

はたして政府の説明を信じていいのか。ある筋から得た情報では、ある大使館は、在留の人々に対し、どうしても日本に残っている必要がないのなら、早期に日本から出国するように、とメールを送ったそうである。

地震について

幸運にも今回の地震で被害はない。揺れがひどくなかった(せいぜい5強くらい)からだが、それでも震度3程度を最大としていたので、恐怖を覚えるほどの揺れだった。

被害のひどさを見るにつけ、被害がなかったことについて、幸運と思うと同時に後ろめたさを感じてしまう。昨夜は余震におびえ、また被災地の様子を一刻一刻フォローしておきたいと思う気持ちで、テレビをつけたまま、ベッドにはいっていた。

いつもより簡単な夕食ながら、ちゃんと温かい料理を食べ、停電にはならないことを願いながら、お風呂にもはいり、まったく通常通りの生活だった。避難場所にいる人々は、食べ物、飲み物、毛布や衣類など配給はあっただろうか、体育館などに寝泊まりするのは、寒いし、寝心地は悪いだろうなと思いながら、快適なベッドに横になっている。

夜中に南仏の友人から電話があった。心配してくれている。そして東京の娘、人の声を聞けてうれしい。早朝にはやはりフランスの友人、九州の兄嫁、とようやく電話が通じたと、立て続けの電話である。余震と、4時ごろの地震で、ほとんど眠れていない。

朝食もいつも通り、なにも変わらない日常が始まった。一方テレビに写る被災地の現実は、目をそむけたくなる凄まじさだ。

こういう後ろめたさは、内乱で一足先に任地を離れたときにも感じたものだ。それかといって、悲惨な現実のなかに身をおきたいと思っているわけではない。ただ第三者としてみていることができないのだ。第2者的立場というのはないだろうか。

被災者として避難している方々、避難が終わった時に、帰る家はあるのだろうか。神戸の教訓は生かされるのだろうか。

菅首相は50カ国の首脳から援助の申し出があったと言っている。私が寄付をしているフランスの救護団体は来るのだろうか。

原子力発電所の事故も心配でならない。安全性について、懸念は多い。それにしても、いつの間にか日本の発電源は、ずいぶんと原子力に依存しているのだな、と認識させられた。

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