今日までの反省事項

地震から2週間がたって、反省すべきことがたくさん出てきた。まず、昨日書いた「エマウス的援助」で、エマウス神父様が始めた活動としたが、エマウスは活動を始めた神父さまの名前ではないことを思い出した。神父さまの名前を思い出さないところが、記憶力喪失で、健忘症と言ったら、健ではなく、病的な物忘れであると、つれあいは指摘している。

おととい、昨日、今日と、新聞とりに車を使った。おとといは積雪10センチ、昨日、今日と残った雪が凍っていて、すべって、転んで、骨折でもしたら、元も子もない、という理屈で、歩くのをやめたのだ。最初の日、吹雪をものともしなかった意気込みがもうなくなっている。

我が家のエネルギー計画は、ちっとも改変されない。分析だけして、それを統合し、解決策を決め、実行に移すという作業が何もなされない。節電・節灯油だけだ。この効果は大きいようだ。節電は以前に比べ10キロワット(通常の4分の1)減だそうだ。節灯油は、大体2週間で150から170リットルを注文するのが、今回はまだ半分くらいしか使っていないので、3分の1は節約ができているようだ。しかし、もっと積極的な変更はゼロである。

台所電化を、東電の宣伝にでた少年のかわいさにのったようなことを書いたのだが、それとは別に、ガスによる事故を心配したからでもあった。消し忘れや、袖口に火がついたりする事故が老人には起きやすい。実際、保温のつもりで小さくした火を消さないまま、味噌汁をついで、食卓についたこともあった。だから、電化にしたのであって、東電の宣伝が悪いわけではない。

捨・断・離にしなくてよかった。自己満足にすぎないかもしれないが、友人のルートで、現物の援助ができるようになった。今日は、押し入れ、タンス、小物入れなど総ざらいをした。6畳の部屋にぶちこんでいく。つれあいがリストをつくりながら、パッキングをしてくれる。「いいタオルがあるね」と言っている。彼には、洗いざらしのバスタオルを長く使わせているのだ。「使いたいものがあったら、とってもいいのよ」というと、「いいよ、でもゲスト用には何枚かとっておいてね」と謙虚な返事だ。6畳の部屋があふれんばかりになるほどのものを、よくぞとっておいたものである。

たとえば毛布、ふだんは全然使わない。でもなくなった母が、「純毛の毛布よ」と大切にしていたので、捨てずにいた。昔は純毛といえば、高級品だったのだ。冬場はタオルケットと羽毛布団、夏になるに従って、羽毛の少ない夏掛けに変えるが、毛布は使わない。押し入れをすっきりさせるために、処分しようとも考えたが、ここも何があるかわからない山の中だ。災害になると、毛布という連鎖に、捨てられないでいたのだ。

メディアに登場される家事のエキスパートは、すっきりした収納のために、余分なものは置かないように、ストックはやめましょう、とよく言われる。タオルやシーツなどは、箱から出して、すぐに使えるように洗濯をすませて、と。
しかし、今回、寄付をするにあたって、箱にいれたままだと新品であることが証明されるが、出したものだと、あいまいになることがわかった。新品のみを受け付けることもあるので、やっぱり箱のまま取っておくべきか。

福島原発で発電された電力が、関東をカバーしていたなんて、ちっとも知らなかった。どこからくるのか、気にしていなかった。そもそも九州生まれで、東京より北のことには無知蒙昧だったのだ。恥じている。
不安のスパイラルに陥っている現在、それを抜け出すのは、やはり、原発問題解決だろうか。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。