幼馴染

卒業50年の同窓会に参加しませんか?という案内があった。50年、半世紀である。歴史の範疇にはいる数字だ。この言葉にひかれて、出席することに決めた。

なつかしかった。けれども50年のブランクは大きい。ほとんどの友人の顔と名前が一致しない。名前はかすかに覚えているのだけど、どうも50年前の顔が思い出せない。そうすると、現在の顔で思いでを引き出そうというのは無理な話だ。

ほとんどが「ちゃん」づけで呼ぶ仲だったはずだ。名簿をみると、筒井筒で結婚した人も数組はいる。どうして思い出さないのだろう。
故郷を出たのは高校卒業後、大学以後は東京に住んだ。それからというもの、方言を出さない、仕事を覚える、
新しい交友関係の人を覚える、土地勘を養う、など頭の中は故郷を思うことより、新規の情報インプットで精いっぱいだった。

仕事を数回変え、そこに外国語習得もはいった。そうなると、故郷情報のはいる余地はない。それが40年以上続いたわけだ。それに年齢からくる記憶力の低下もある。

同窓会で共通の思いでをたどるが、どうしてこう違うのだろう。相手の話は思い出さず、こちらの思いでも通じない。

「幼馴染の思いでは 青いレモンの味がする」という歌がある。歌詞は永六輔、作曲中村八大だったと思う。中村八大は高校の大先輩だ。私たちの時代には、レモンなどなかった。もしあってもアメリカからの輸入品で、値段がとても高く、一般の家庭にはいるものではないかった。レモンをみたこともなかった。

だから幼馴染の思いでは、私にとっては、早なりのミカンの酸っぱさではないだろうか。でもなつかしい。胸がきゅんとくる懐かしさがある。「ちゃん」で呼べる人は、せいぜい中学まで。一挙に50歳若返ってしまった一日だった。

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