地震について

幸運にも今回の地震で被害はない。揺れがひどくなかった(せいぜい5強くらい)からだが、それでも震度3程度を最大としていたので、恐怖を覚えるほどの揺れだった。

被害のひどさを見るにつけ、被害がなかったことについて、幸運と思うと同時に後ろめたさを感じてしまう。昨夜は余震におびえ、また被災地の様子を一刻一刻フォローしておきたいと思う気持ちで、テレビをつけたまま、ベッドにはいっていた。

いつもより簡単な夕食ながら、ちゃんと温かい料理を食べ、停電にはならないことを願いながら、お風呂にもはいり、まったく通常通りの生活だった。避難場所にいる人々は、食べ物、飲み物、毛布や衣類など配給はあっただろうか、体育館などに寝泊まりするのは、寒いし、寝心地は悪いだろうなと思いながら、快適なベッドに横になっている。

夜中に南仏の友人から電話があった。心配してくれている。そして東京の娘、人の声を聞けてうれしい。早朝にはやはりフランスの友人、九州の兄嫁、とようやく電話が通じたと、立て続けの電話である。余震と、4時ごろの地震で、ほとんど眠れていない。

朝食もいつも通り、なにも変わらない日常が始まった。一方テレビに写る被災地の現実は、目をそむけたくなる凄まじさだ。

こういう後ろめたさは、内乱で一足先に任地を離れたときにも感じたものだ。それかといって、悲惨な現実のなかに身をおきたいと思っているわけではない。ただ第三者としてみていることができないのだ。第2者的立場というのはないだろうか。

被災者として避難している方々、避難が終わった時に、帰る家はあるのだろうか。神戸の教訓は生かされるのだろうか。

菅首相は50カ国の首脳から援助の申し出があったと言っている。私が寄付をしているフランスの救護団体は来るのだろうか。

原子力発電所の事故も心配でならない。安全性について、懸念は多い。それにしても、いつの間にか日本の発電源は、ずいぶんと原子力に依存しているのだな、と認識させられた。

危機管理(地震版)

今日は地震について書かれたブログが多いことだろう。やっぱり書かずにはいられない。愛読する「経営に成功するための15カ条」も、昨日早速臨場感をもって「地震考」を書いてあった。

3月11日午後2時46分、その時、炬燵にはいって、テレビで国会中継を見ていた。突然、緊急地震情報?が画面に出てきた。東北という地名に、遠いからいいやと、そのままこたつにはいったままだ。ところがよく揺れた。これまでにない、強い、長い揺れだ。真向かいに座っているつれあいと顔を見合わせるが、二人とも動かない。動けないのかも。

「あわてず、揺れがおさまってから火の始末」とテレビでは言っている。火は使っていない。揺れがおさまったものの、腰が抜けたのか、動く気になれない。結局、こわくて尿意を催したため、ようやく立ち上がった。

それからずっとテレビで被災地の様子が実況中継されるのをみている。なんという現実なのだろう。2006年12月26日のインドネシアなどの大津波は、時間差があった。これは今、起きていることなのだ、と思うと、画面に映っている車、歩いている人に、「早く逃げなさい!!」、「あぶない!!」と叫びたくなる。

結局、地震がおきてしたことは、停電を考えて、懐中電灯のあり場所を確認したこと、充電器にさしたままの携帯電話を手元においたこと、夕食を早目に準備して、5時に食べたこと、夜に全部閉める雨戸を一か所閉めずにいたこと、程度であった。

タンスの上にはいろんなものがのっており、家の中は物があふれている。もしもっと強い揺れだったらどんなになったろう、と思うが、今更片づけられない(気力・体力が失せている)。

それにしても携帯電話も固定電話も通じない。テレビだけは全局地震特番になっており、現地の様子を中継してくれる。情報がないというわけではないが、個人的な情報、つまり家族や友人とのコンタクトがとれない。これはどうしようもなく不安である。

東京というメガシティでの直下型大地震だったらどうなるのか、テレビ局は報道ができるのか、政府の会見などはどうやって見ればいいのか、iPodだなんとかだと新しいIT機器の宣伝はあっても、それがはたして機能するのか、またそれを持っている人はどれだけいるのか。

東京の地震でもないのに、すべての交通機関がストップしてしまうなんて。道路が寸断されているわけでもないのに、官房長官は歩いて帰るなという。「歩いて帰れ」という運動をしていたのはどこの団体だろう。

アフリカで内乱に遭遇したとき、自分の危機管理がいかになっていないかを実感したが、地震についても同様だということを感じている。

地震の規模が予想を超えるものだったと、政府や専門家は言うけれど、災害というものは、常に人智を超えたから災害になるのだ。

炊き出しの手伝いや介護の必要な方たちの手助けに飛んでいきたいけれど、きっと邪魔になるだろう。何をどうすればいいのやら、指示待ちである。今回はどうやらこうやら文句を言わず、「赤十字」でもなんでも寄付をすることになるだろう。




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