仰げば尊し

3月は卒業式の月、「仰げば尊し」が聞ける月である。ところが、このごろはあまり歌われないという。我々の世代は、この歌を聞くと、ウルウルになったものだ。先生なんて、ほとんど意識していないのに、「わが師の恩」と歌えば、先生にいたづらをしたことを申し訳なく思ったりした。

この「仰げば尊し」と「ふるさと」は、外国にいたとき、本当に歌えば涙だった。しかし、考えてみると、いづれも故郷を出て、立身出世しなさいというような内容だ。「身を立て、名をあげ」と言われても、もう老残の身、そこまでいかなかったな、と慙愧の念にかられる。

時代遅れの歌だなと思いながら、この復古調の、文語体の歌詞がなんともいえない。背中をぴんと伸ばし、姿勢正しく歌えば、たちまち、50年は昔に戻ることができる。
昨年、故郷に帰省したとき、思い立って小学校、中学校、高校と訪ねてみた。3校とも歩いて10分以内にある。一番遠いのが小学校なのだ。
もう半世紀も前の思いでなど、残ってはいないし、学校もそのままではない。小学校では、私が竣工式であいさつをした新校舎が、一番古い校舎となっている。

小学校、中学校などでは何を勉強したのやら、先生の名前も覚えていない。校歌もきちんと歌えない。それなのに、この「仰げば尊し」はしっかり記憶に残っているのだから、すばらしい。
「今こそ別れめ、いざさらば」でもいつかは故郷に戻りたい。

違和感をもったことなど

テレビを見ていると、ニュースで被災地域の小学校の卒業式をやっていた。先日から廃校になったり、統合されたりで、なくなってしまう学校での最後の卒業式といった、感慨深い式典が多い。
ところが、違和感をもってしまう。卒業生という子どもたちの服装だ。とくに女子だが、派手な袴姿が多い。メイクまでしているかどうか、老眼では見定められないが、髪もセットして飾りまでついている。今日の放送では、男子もそんな姿があった。

被災地なのに、という気はない。ただ、小学生の卒業式がそんなに派手な服装で行われているという事実にびっくりしたのだ。私の常識では、私立なら制服で、公立の小学校でも紺色がメインのモノトーンの服で出席するものだった。
大学の卒業式で、いつ頃からはかま姿が流行したのやら、これにも違和感をもっていたのだが、ああ、小学校からなのか、と驚いた次第である。

村からの広報誌が届いた。ショックなことに、「65歳以上の方の介護保険料が上がります!!」という印刷物がはいっている。
若いひとたちは、年金受給者はいいね、というけれど、満額もらえるわけではない。65歳からはしっかり介護保険が差し引かれる。否応もない。もう税金と一緒のことだ。介護を受ける立場になれば、きっとありがたみが出るのだろうが、なにもなければ、税金そのものだ。つれあいは所得税もかかる年金額だから、介護保険も6段階のトップの保険料になる。表でみれば、18,900円の増額になる。私はその下の第5段階(本人が住民税課税で、合計所得金額が190万円未満の方)に相当しそうで、15,700円のアップとなる。

介護を受ける状態ではないので、その介護保険で受けられる恩恵は、高齢者温泉入浴事業だけである。これは村の温泉施設に、65歳以上の人に対して50枚のクーポン券がこれまでは7500円で発行されていた。つまり温泉に1回150円で入浴できていた。これが5000円になるという。つまり1回100円での入浴だ。
村外の方や65歳未満の方々は、施設によりけりだが、600円から1000円の入浴料がいるから、この事業の恩恵はとても大きい。昨日もつれあいと二人、午後の時間は温泉行きだった。

もうひとつ、高齢者福祉タクシー事業という恩恵がある。これは車をもたない高齢者(家族がつれていくことができない人も)に、医者通いなどのとき、タクシーを利用することになるが、その費用の一部を負担するというものだ。その負担割合を増やしたようだ。
今のところ、わが家はもっぱら私が運転手状態だが、車があり、運転する人がいるから、このサービスを利用したことはないし、利用できない。

そうなると、こんなサービス拡大より、介護保険料のアップを避けてほしいと思ってしまうのだ。
身勝手なことはわかっている。村としては、きっと恵まれない状態にある人へのサービスを充実させたのだろう。

これと同じことが現在の国の政策なのだろう。結局、身勝手なことばかり言っていれば、アメリカ型の自助努力で、ということになりそうだし、そこまでの覚悟はないし、黙って払うより仕方はない。
でもこの介護保険、税金より悪い。税金は申告時、控除などがあり、還付もあるけれど、介護保険はとりっぱなしなのだ。
そして一方的に増額が決まっている。

国家元首の要件

今年は国家元首(大統領)選挙の当たり年だ。つい先日、ロシアではプーチン氏が大統領に返り咲いた。
フランスでは、公式の選挙運動が始まった。現大統領のサルコジ氏、それに社会党のオランド氏が有力視されている。

連日のように、アメリカの大統領選挙前哨戦が報道されている。共和党の候補者を決めるための選挙が毎日のようにニュースのテーマになっている。
有力候補のミット・ロムニー氏は、モルモン教の信者なのだそうだ。アメリカではWAPSという言葉がある。イギリス系白人でプロテスタントでなければ、アメリカで出世することができないと言われていた。これはもちろん大統領にもあてはまり、ケネディ氏が大統領になったとき、アイルランド系のカトリック信者が初めて大統領になったと話題になった。

現オバマ大統領は、黒人(混血だが)初の大統領というので、選挙中は選出は無理だろうとうと言われながら、とうとう選出された。

フランスでも以前であれば、純粋(何をもって?)なフランス人で、敬けんなカトリック信者でなければ、と言われていた。ドゴール大統領が好例で、次のポンピドゥー、ジスカール・デスタン、ミッテラン、シラクと一応、その条件を満たしている。ミッテランのあと、社会党のロカール元首相が有力視されたとき、彼がカトリックだから駄目だとか言われたこともある。

タブーはだんだんなくなっている。現大統領のサルコジ氏は、東欧移民の子であるし、大統領に選出された時ですでに再婚、直後に離婚して、現夫人カーラとは3婚目だ。
いわゆる保守的かつカトリックのフランス人は、離婚をスキャンダルという。そういう点からいえば、サルコジが大統領という可能性はなかったはずだが、そのフランス人多数が、当時の対抗候補セゴレーヌ・ロワイヤルよりはましと選んだのだ。

その敗北候補のセゴレーヌ・ロワイヤルは、現社会党候補のオランド氏と長い間パートナーであった。しかし、5年前の大統領選挙のころは、もう別れていたようだ。オランド氏には、現在、別の女性がつれそっているとか。
女性問題は、もう大統領選挙では問題にならないらしい。

宗教はどなのだろう。フランスはライシテ(非宗教性)を重視する国だが、根幹には「ローマの長女」といわれるカトリックの影響力をもっている。プロテスタントまではあるかもしれないが、キリスト教以外の信者が大統領になる日もあるのだろうか。

そんなことより、もっと大切な要件は多いのだろうが、ちょっと気になっている。

生活防衛

この冬の寒さで、野菜があまり育たず、値段が高い。そのせいだろうか、毎週1回のまとめ買いをする支払い金額が大幅にアップした。1週間分の朝・昼・夕食、ほとんど毎回買い物の内容はかわらない。

朝食はパターン化していて、パン、紅茶、ヨーグルト、果物、ヤクルト、で、つれあいはこれプラスコーンフレークスにレーズンをいれ、牛乳がいる。それと必ずサラダで、トマト、レタス、キュウリ、ルッコラかベビーリーフ、玉ねぎ、ニンジンで構成されている。
冬場にこのような生野菜を食べるのは、私は体が冷えるので遠慮しているし、まず食欲がでない。しかし、つれあいは、健康の素と信じているようだ。これらの野菜の値段が高い。

昼は、うどんやスパゲティ、焼きめし、などになるが、うどんも何も具のない素うどんというわけにはいかない。鶏肉やかまぼこ、野菜もそれなりにいれないと、つれあいが食べた気にならないようだ。スパゲティや焼きめしにしても、スープかサラダをつけないといけない。

このごろ夕食はとみにグレードが下がって、1汁1菜的になっているのだが、つれあいの歯が悪くなって、肉なら柔らかいもの、魚も白身の骨のすくないもの、など、条件がつくようになった。以前、よく買っていた鯛のアラなど、めんどうくさいと言われてしまう。

そんな諸条件も加わったからかもしれないが、とみに生活費が高くなっている。これに灯油やガソリン代、電気代など、冬場の費用はとてもかかる。
通信費を倹約するように、と言われるが、冬場、閉じ込められたような生活をしているのに、電話でくだらない話でもして、気分転換を図らなければ、精神異常になるのよ、とけん制する。
通話の多くは、市外通話になるので、請求書で誰と何分話し、いくらかかったか、というのが一目瞭然にでてくる。

サラダがつれあいの健康の素なら、電話は私の健康の素よ、というのだが、両方かさめば、成り立たないのは必然で、一応、私がひく形をとっている。
本来なら、消費税アップにむけ、家計のスリム化をしなければならないのだろうが、どこをどうすればいいか、考えると頭痛がすると、私は考えることすらギブアップし、つれあいの提言を聞いても頭痛がし、ともに考えないことで現在の解決策としている。こういうのが破綻への一歩かもしれない。

新社会人への期待

甥(弟の長男)がこの4月に社会人になる。なかなか就職が決まらず、心配していたのだが、どうにか決まったらしい。どんな会社なのか、また心配ではあるが、そこまで伯母が気にすることもあるまい。

早速、就職祝いを送った。現金である。本人を宛先にしていたが、弟からまずはお礼の電話があった。本人は、研修やら、就職前に旅行にいくやら、不在らしい。

本人からは手紙でお礼を言うように、と弟に告げる。それもお祝いをつれあいと私の名前でしているから、二人あてにするように、と注意しておく。そして、きちんと作法にのっとった文体で書くように、と念を押す。
というのは、成人したとき、お祝い(現金)を送ったのだが、その礼状がひどいものだった。便箋でもなく、ノートを破ったような紙に、鉛筆で、こちらの名前もなく、自分の名前も書いていない。
お年玉については、お礼の一言もない。

うるさい伯母さんと言われないため、住んでいる場所も遠いから、黙っていたけれど、今度は社会人になるところだ。この1年、あるいは2年間、就職活動をしているはずだ。就職活動はどんなことをアピールしたか、全くわからないが、少なくとも、一般常識はもっているふりだけでもしたのではないだろうか。

私は大学卒業時にきちんと就職せず、中途で仕事をみつけたので、いまどきの就職試験などはわからない。試験官はどういうところをみるのだろう。常識があるかどうか、それもみられるのだろうか。

弟は、本人らしさで書くだろうと言う。「本人らしさ」というのがどんなことか、わからないが、もし、以前のような手紙が本人らしいのなら、とんでもない。私にしてみれば、就職祝いという節目のお祝いに対する礼状については、きちんとしたものを書いてほしい。

どうも弟はそのことを息子にきちんと言えないのではないかと思う。甘い親である。とはいいつつ、私も本人に直接厳しいことを言えないでいる。
甥にだけでなく、今の若い人たちに、こわいおばさんと言われるのがこわくてならないのだ。

読み聞かせ、今期終了

今朝、今期最後の読み聞かせに行きました。近くといっても車で5分以上かかるところにあります。アップダウンがきつく、このごろの雪続きにひやひやする道路です。

朝8時15分から10分間、たったの10分です。絵本をなるべく使いますが、時には変わったこともします。私の場合は、手持ちの化石類(アンモナイト、サンゴ、木の葉)や鉱石などをみせるとか、外国の楽器などを持参して、さわったり、弾いたり、一種の体験学習もします。

1年生から6年生まで、教頭先生のつくられたシフトに沿って、月に2回から3回の頻度でします。4人ほどの読み聞かせスタッフがいます。
今日は、私は3、4年生を対象に読み聞かせでした。少し大人数になるので、絵本ややめて詩を読むことにしました。金子みすずの詩「こだまでしょうか」などは、昨年の大震災後、いやというほど放送されたので、まだ記憶にあります。そのほか、春をテーマにした詩や、早口言葉の詩などを一緒に暗唱したり、読みました。

そのあとで、感謝の集いになりました。全員が感想文をかいてくれています。代表が自分のものを呼んでくれました。どんな感想なのか、どきどきします。
読み聞かせの都度、図書館で絵本を探し、これは!!とピンとくるものを見つけるのですが、それが生徒たちに伝わったかどうか、ときどき不安になるときがあります。

私への感想文ですし、批判よりよかったと思うことを書いてくれていることはわかります。それにしても、やっぱり子どもの感覚はちがうなーと感じました。
「しっぽのつり」という本を読んだときのことです。意地悪なきつねが、結局だまされて、冷たい川に自分の尻尾をつけて、つりをして、尻尾が凍ってしまうというような話です。
実演のかわりに、40年以上前に流行していたタヌキの毛皮(顔から尻尾までの1頭分)を持参し、こんなふうに、とお尻からたらしてみたのです。そして、その毛皮を全員にさわらせたのですが、それがとても印象てきだったようです。

全員がその毛皮にふれた感触について書いています。今では、きっと動物愛護の運動もあるし、流行もあって、こんな毛皮の襟巻など、売っていないでしょう。当時はともかく、今では首回りにつけると、毛がくすぐったいやら、うっとうしいやらで、襟巻としては使いません。邪魔っけになって処分も考えていたのですが、こういう小道具として使えるとなると、簡単に捨てられません。

60歳をすぎた大人にはなんの不思議もないことでも、子どもにとっては、まだまだ未知の世界のようです。この小学校も来年までは今の場所にありますが、再来年からは統合されて、もっと遠くなります。そこまではお付き合いできないので、来年まで、読み聞かせには通うことにしていますが、毎回、趣向をこらしていきましょう。

マニキュア昨今

このごろ、ピアノは弾かないのだが、それでも習慣的にちょっとでも爪がのびると気持ちがわるい。白い部分はほとんどみえない程度に短く切りそろえる。

かかわっている仕事の関係で、あまり派手にはできず、マニキュアもだいたいは透明のベースだけにして、色は使わない。

しかし、現在のネイルアートの流行はすごい。爪の長さが魔女の絵のようにのびている。
もう40年くらい前、知人の男性の奥様が、アメリカでネールアートの勉強をしているという話を聞いた。その時、日本ではネールアートははやらない、そんなところにお金を使う人はいない、とケチをつけた。

先見の明のないこと、はなはだしい。もしその奥様にお会いする機会でもあれば、お詫びしたいところだが、知人ともすっかり音信不通になってしまった。

それにしても、ネイルアートをしてもらう人たちは、日常、どうやってすごしているのだろうか。家事などはできるのだろうか。パソコンをうてるのだろうか。などと、疑問がある。

テレビなどでみていると、マニキュアだけでなく、きらきら光るものがついたり、デザイン性があって、とてもきれいだ。
きれいだけれど、ネイルアートなどが、芸能人など、特別な職業の人たちだけでなく、一般の若い女性に流行しているのはどうなのだろう。

先日、指先のあいた手袋をみつけた。指先の仕事をする人のためかと思ったら、ネイルをつけている人のための手袋なのだそうだ。ああああ。

ガソリン価格高騰

このところ、雪に降りこめられていたのですが、今日は久しぶりに車で出かけました。春のドライブならいいのですが、つれあいが病院へ行くための運転手です。
ガソリンの残量が心細かったのですが、給油するいい機会になりました。

でもびっくりです。前回は2月28日に1リットル140円だったのに、今日は、軒並み156円になっています。16円も上がっているなんて驚きです。

イランからの原油がはいらない、ホルムズ海峡の不安定さ、などが原油の価格をあげているようです。海外のニュースでも、アメリカもフランスもガソリン価格の高騰を扱っています。

イランに経済制裁を課すために、イランからの石油輸入を禁じたり、経済活動を制限したり、その結果がこうです。なぜイランに経済制裁を課すのか、イランが核開発をしているからだそうです。アメリカは、イラン、パキスタン、インド、北朝鮮などが核を保有するのがいやなようです。

核保有の既得権をもっているのは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、などです。イスラエルもひそかに保有しているとか。

核拡散は危険だし、不安要素が増えるけれど、アメリカがこんなに独善的に行動するのも、なんだか納得いきません。

イランもこの経済制裁で、通貨の価値が下がり、輸入品の価格が高くなり、市民は困っているようです。イラン国民も困り、日本国民も困り、アメリカもフランスも市民レベルでは困っているのに、政治のレベルでは、この政策がしばらくは強化されるとか。

ガソリン価格のなかの暫定税率はどうなるのでしょうか。民主党は以前、暫定税率をなくすと言っていたはず。それがなぜか維持されたままで、鳩ぽっぽ氏は、160円を超えるような価格になったら一時やめるとかおっしゃっていたように思い出します。
かろうじて、今日は148円でいれるスタンドをみつけました。いくらになったら、暫定税率がはずされるのか、もしかしたら、民主党のことだから、ほおかぶりですませるのでしょうか。

反原発のうねり

昨日は、外国の友人たちから、大震災1周年のお見舞いメールをたくさんいただいた。いろんな国で、昨日のニュースはフクシマを含む大震災の回顧で終始したという。

今朝、外国ニュースをみていると、本当によく時間をさいてくれている。いかにショッキングな出来事であったのか、よくわかる。
それとともに、フクシマ原発の事故は、恐怖ともなった。地震に津波は、地震国に起きることと限定できても、原発がある国は、どんな事故が起きるかもしれない。チェルノヴィル、スリーマイルアイランドの事故だってあったのだ。

フランスでは原発は、海辺ではなく、大きな川に沿ってが多い。とくにリヨンからアヴィニョンの間、ローヌ川沿い
には14基もあるそうだ。その240キロを人間が手をつないだ。
ほかにベルギー、ドイツ、アメリカ、多くの国で、反原発のデモがあったという。

原発ははたして必要不可欠なものだろうか。30年前、フランスを旅行したとき、アルザス・ロレーヌ地方を車で移動した。第二次大戦当時、仏独で争った工業地帯である。まだ火力発電所が稼働していたが、同行したフランス人の友人は、もう火力はやめて原子力に転向しなければならないと言った。そうしなければ、CO2の排出量が多すぎて、空気汚染が許容の範囲を超えてしまうというのだ。

空気汚染については賛成したものの、原子力というものの不気味さも感じていたので、何が代替えになるかを言えないまま、黙って彼の発言を聞いていた。
この地球をきれいなまま、後の世代に残すためにと、CO2の排出量を制限する動きがあり、そのためにも、原子力発電は必要だと言われていたが、この核汚染は、もっと汚い地球にしかねない。

核物質が原因とするガンなどの病気についても、長いスパンでみなければならない。アスベストの被害が20年、30年後に出たように、核汚染の被害は、もしかしたら、50年後、また次世代にでるかもしれない。
それを思うと、まだしもCO2の方がましのようにも思える。

しかし、この反原発のうねりも、先進諸国のみのような印象だ。後発国は、まだまだ原発開発を目指している。
全世界とならなければ、この動きも不完全だ。

2012年3月11日

今日はどうしてもこの話題以外に心が動かない。去年のこの日、つれあいと二人、こたつの中で国会中継をみていた。地震に津波、ずっとテレビをつけっぱなしでみていた。あの時のショックがよみがえってくる。

インドネシアやタイを襲った地震と大津波、これ以上ひどい災害は起こり得ないだろうと思っていたのに、東日本の災害はそれを上回っていた。そして実況で見るという、見る人にとっても残酷な災害だった。

つれあいと二人、平穏にくらせる喜びをつくづくと感じて、しばらくは仲睦まじく、理想的な生活だった。計画停電にも協力、また節電を心がけ、生活もつましくしていた。

ところが1年たって、どこまで去年の思いが残っているだろう。ガソリン倹約のために、新聞とりに毎朝歩くようにしたのは、半年続いただろうか。お洗濯も毎日ではなく、2,3日まとめてしていたのだが、やっぱり毎日になってしまった。

今でも続いているのは、こまめに電気を消したり、日中使わない寝室のコンセントは抜いておくくらいだろうか。

今日の新聞に、知りたいと思っていた赤十字の寄付の明細が全頁広告の形で載っていた。寄付されたお金は全額、被災者への援助にまわっているという。ちょっと安心した。事務費など経常の費用は、社資(会員などからの寄付)によっているので、義捐金を使うことはないそうだ。

2月に終えた確定申告で、寄付した金額のほとんどが控除の対象になった。なんだか申し訳ない気持ちでいるところに、義捐金の受付は9月30日までになったという。
これは、もう一度、寄付をしなさいという、啓示かもしれない、などと思う。少なくとも、還付金に相当する金額は寄付すべきか。

ただ、問題は一度は節約志向になったものの、刹那主義がでてきて、気持ちと財布のひもをちょっと緩めたら、家計が真っ赤になってしまったことだ。家計と寄付をするお金は別勘定にしているのだが、連結決算であることには変わらない。

親を亡くした孤児たちの、奨学金に寄付したい。進学のお手伝いをしたいと思う気持ちが強いのだが、ストレートに目的を特定できる寄付はない。「あしなが奨学金」もいいのだが、少し抵抗感を覚えるところがあって控えている。

あれほど、被災者の方々と思いを一つに、と思っていたのに、この条件付けはいただけない、と反省しているところだ。

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