事実婚(フランス婚)のすすめ

先日、渡辺淳一氏の「事実婚のすすめ」を読んだ。現在の少子化の原因が、未婚率上昇にあるとすれば、結婚の形式にこだわらず、事実婚をすればよいと言われている。
渡辺氏の小説の作風と、このエッセイとのつながりが、ちょっと違和感を感じさせた。

その理論の根拠として、フランスを取り上げている。フランスは先進国ではめずらしく、出生率が2を超えている。出生する子どもの50%以上が婚外子で、正式な婚姻以外から生まれているという事実から、事実婚をもっと認めようというのだ。

日本では婚外子といえば、シングルマザーと結びつけることが多いけれど、フランスの場合、正式に結婚していないだけで、パートナーは存在する。
このごろは、事実婚を「フランス婚」とも呼ぶそうだ。

このごろ、子どもに「愛の結晶」と言えなくなってきている。できちゃった婚などは、愛の結果と言えそうだが、実際は、動物的結合というのか、刹那的な結合の結果でしかないことが多い。欲望の挙句で、深い愛情があってともいえない。

なんでもありのような現在、婚前交渉というのも別に珍しくない。結婚まで性交渉をもたない方が珍しいらしい。
昔風に育った人間には、どうもなじめない。きちんと結婚をし、そして子をなす、といったオーソドックスな生き方は古いのだろうか。

フランスで事実婚が多いのは、離婚が日本より大変なこともあるが、「産む」という行為を、女性の選択に任せるようになったこともある。
「家族制度の崩壊」の第一歩なのか、それとも子どもが生まれるというのは、家族の存続を可能にしているのだろうか。

少子化が問題視されているが、その理由は、次世代を構成し、労働力や年金負担のために、といった観点からのようだ。そんな目的ではなく、子どもそのものが宝なのだと思っていきたいものだ。


2月29日を休日に

フランスのインターネットを見ていたら、2月29日を休日にしてほしいという要望があった。これには、フランスの事情があるのだが、面白い考えだと思う。

フランスの事情というのは、2006年だったか、酷暑の夏があり、そのとき、都会で高齢者の孤独死が多くあった。社会連帯のため、これまで祝日であった聖霊降臨祭の月曜日が無給で働く日となった。そんなことから、2月29日は、月給制で給与を受け取るものにしてみれば、1日、無給で働くことになる。4年に1度とはいえ、それはばかばかしいことだというのだ。

もう現役でない人間にしてみれば、休日になろうと、無給の労働日であろうと、別に関係ないのだが、そしてどちらかといえば、定額の年金で、1日余計に食べなければならないので、その分が負担というだけだ。

2月29日生まれという人の投書が朝日新聞にあった。4年に1度の誕生日では困ることになろう、またそういう異常はよくないと、祖父にあたる人が、3月1日で出生届を出したのだそうだ。
そのままうるう年ということで、受け止めているけれど、毎年、いくばくかのあまりが出て、それを4年に1日増やすとか、2月だけ普通は28日しかないというのが、この年齢になっても、理屈がわかっていない。

でも4年に1度だけの、特別な休日というのも、なかなか楽しいものではないだろうか。オリンピックの年というだけでなく、特別休日のある年、そしてその日は決まっている。
マニフェストに書きこんでくれる政党はないものだろうか。

退職後の生活資金

数日前から、企業年金運営の会社が、2000億円を無にしたというので、大騒ぎしている。企業年金といえば、JALが破産したときにも、これまでの退職者から、年金減額の承認をとるため、現役が説得してまわり、ようやく可能になったといった話をきいた。

私は日本の会社で働いた期間が短いし、半分は国民年金だったので、企業年金などの存在を知らなかったのだが、ある程度の規模の会社は、厚生年金のほかに、企業年金の制度があるのだそうだ。給料の中から、積み立てているのだから、労働者の汗の結晶ではあるが、企業からの補助もあって、また零細企業ではとても望めない制度である。

若いころの友人の一人は、財産形成について話してくれたことがある。不動産、有価証券、現金と3分割するのだそうだ。当時、私は食べることに必死で、財産なんて論外だった。彼は会社経営者であったが、さすがと思ったものだ。

ある程度年齢がすすんで、退職後のことを考えるようになったとき、茫然となったことを覚えている。日本の会社で働いているときは、厚生年金に加入していたが、その後の外国機関では、社会保険への加入がなく、国民年金だった。したがって、現在受給している年金たるや、基礎年金プラスほんの少しの厚生年金である。

新聞社や銀行、テレビ局などは、きわめて恵まれた企業年金らしい、と聞いたことがある。これらの企業年金はどのような運用をしているのか知らないが、今回のAIJなる会社に委託していた企業年金は、中小企業のものが多いとか。
今後、どのようになるのか、部外者で財政素人の私にはわからないことだが、これに関連している方たちの不安はいかがなものだろう。

公的年金も不安材料ばかり、そこに当てにしていた企業年金がないとすれば、そして最悪、退職年齢と年金受給年齢にギャップができれば、よほどの預貯金がなければやっていけない。

個人年金やら、あと、貸家などの不動産で定期収入を得るとか、収入の多様化を図っていなければならないようだ。それとも、宝くじで一発5億円をあてるか。

記憶力の低下

今日は厄日なのだろうか、それとも単に記憶力の低下なのだろうか。25日すぎなので、クレジットの使用明細がメールで届いた。それを開こうと、与えられているIDとパスワードを入力したのだが、違っていると出てくる。

IDが違うというのは、全くおかしい。これはちゃんとメモをとっていて、その通り打ち込んだのだ。そのうち、パスワードまでおかしくなって、とうとう登録しなおしになってしまった。

そこでも、何度もやり直しになってしまう。どこかで狂うのだ。もういやになってしまった。途中、お水を飲んだり、気分を直して、どうにか、目的を達した。
クレジットの明細は、月に1回だから、こんなことになるのかもしれない。

ところが、毎日インプットしているこのブログを開けるのに、また失敗してしまった。もうやめた!!と思いつつ、またどうにか回復した。
新しいIDやパスワードなど、どこかに記録させておかないと、どうしようもない。

先日は1年ぶりくらいにジパングを使う時、やはりパスワードがわからなくなった。窓口で購入したので、どうにか買えたからよかったものの、自動販売の機械では買えないところだった。

銀行や郵便局では、ATMのところに、暗唱番号をときどき変えるように、と書いてある。そして誕生日や電話番号を暗唱番号に使わないようにとある。
しかし、どの口座にどの暗唱番号を使ったか、など、覚えていられないし、メモにしてはいけないと言われると、どうすればいいのやら。

つれあいも同様の問題をかかえているようだ。二人して、外国でカードが使えないといった状態になったら、どうしよう。ときどき、ふっと記憶がなくなるような気がしてならない。

天は二物を与えず

今日から、大学の試験が始まっている。いつも天気が悪いなーと、身うちに受験者がいない気楽さで、受験生の様子をみていた。

このごろ、タレントにも高学歴の人が多い。最初は、東大生のタレントというと、珍しくて注目していたが、今ではもう数が多くて、ふーん、としか思わなくなった。
私の時代は、「天は2物を与えず」と言われ、頭がいいか(勉強ができる)、美人かの2者択一であった。ところが、今や、どちらかの時代ではない。どっちもの時代である。2つどころか、3つも4つも、並はずれた才能をもつ、マルチタレントの人が珍しくない。

美人(かわいいでも可)であることは最低条件で、それプラス頭がいい、スタイルが抜群、特技がある、など求められるものが多い。
男性の場合は、イケメンである必要はないかもしれないが、それなりに味のある御面相であることが求められる。

フランスでエリートたちと話していると、実に余裕のある人生を送っている。グラン・ゼコールという超難関の学校に入学するときは、猛勉強したらしいが、それにいたるまでは、スポーツも芸術も、けっこうレベル高いところまでこなしている。
ENAの学生であったベルトランは、ピアノが上手だった。一度、わが家で音楽の集まりをしたとき、モーツアルトのピアノコンチェルトを聞かせどころだけ弾いてくれたし、私の演奏に「ペダルを使いすぎる」などと酷評をしてくれた。

東大生などの出身家庭をみていると、苦学生の割合が低いという。ほとんどが中流以上の生活レベルで、教育格差が明らかだとか。
社会に出て、教育を受けただけではなく、教養も問われることがわかってけれど、せいぜい2物くらいですんでいた時代に育ってよかった。

先日、同い年の友人から、これからは、キョウイクとキョウヨウが必要なのよ、と言われた。高齢者のキョウイクとは今日行く場所、キョウヨウとは今日すべき用事の略だそうだ。田舎にひっこむと、そのキョウイクもキョウヨウもない。

シリアの悲劇

今日のフランスのニュースで、シリアのある町で負傷したフランス人ジャーナリストが、助けを求める姿を報道していた。女性ジャーナリストで、足を負傷し、動けないらしい。ベッドに横たわり、わりとはっきりした声で、救援を要請していた。

スタジオでの解説では、このジャーナリストがビザを得ることなく入国しているので、救援が難しいと言っている。彼女は手術を受けるためにも、隣国レバノンへの移動ができるように、と求めていた。
先日は、フランス人のカメラマン、イギリスのジャーナリストが死亡した。

政府軍の攻撃は、もう見境なしのようだ。死者の数はもう8000人を超えているらしい。どうなるのだろう。
シリアには行ったことがないので、都市名をみてもぴんとこないのだが、内戦のこわさはわかる。

国連安保理事会の決議は、ロシアと中国の拒否権発効で、採択されなかった。本会議での採択をめざしているらしいが、1日も早く、なにかしらの行動をとらなければ、市民の命は失われるばかりである。

現代でもこんな悲劇がおきることは信じられない。そして近代国家が手をこまねいている事実、昔だったら、どこかの国が、自国民の保護を名目に、すぐに介入していただろうが(それが望ましい行動とは思えないが)。

「にあんちゃん」を見ました

今日は雨模様で、低気圧のときは体調も悪く、こたつにはいってぐずぐずしていました。テレビの番組をみると、午後1時からBSプレミアムで映画「にあんちゃん」をやるとあります。

昭和34年の作品です。舞台は九州佐賀県にある炭鉱です。モノクロですし、暗い映画とは承知していましたが、たしか、小さいころ、学校からの映画観賞会みたいなところで見たような気もします。
今日は一日グータラにすごすと決めたので、この映画を見ることにしました。

まあ、なつかしい俳優さんたちが総出演です。今村昌平監督の作品ですから、いわゆる社会派。ああ、昔はこんなに貧しかった、と小さい時の生活を思い出しました。道路など舗装されていなくて、雨が降れば、ぬかるみです(今も、わが家の前はそうなりますが)。いつ洗濯するのかわからないほど汚れた、破れた衣服です。

布団にシーツも敷かれていません。汗と脂で汚れた布団です。糊のきいたシーツというのは、いつ頃から使うようになったでしょうか。わが実家では、昭和27年ごろには、シーツを洗濯すると、ご飯粒の糊につけて、ごわごわになるほど固くしていたような記憶があります。

炭鉱労働者である父を亡くし、4人兄弟が力をあわせて暮らしていく、そこには炭鉱仲間の助けいあいがあり、また生活苦による不平があり、病気があり、本当に気の毒で、見ていてつらくなりました。

あれから50年、物があふれ、断捨離なんて言葉が流行する時代です。それでいて、餓死する人が連続しておきています。なんという時代でしょうか。もう「にあんちゃん」の時代には戻りたくはありません。でも、政治の方向が間違えれば、今の飽食の時代が、また思いでの一つになるのかもしれません。

マドモワゼルの呼称廃止

22日お昼、食事をしながら、BS3でフランスのニュースをみるのが楽しみだ。今日は、最後にフランスでは、公的な書類に、未婚女性に使われるマドモワゼルが廃止されるというニュースがあった。
男性は未婚・既婚を問わず、ムシュー(Monsieur)一つなのに、女性は未婚であればマドモワゼル(Mademoiselle)、既婚であればマダム(Madame)と呼ばれる。

演説会や会合などで、スピーチをするとき、英語だとレディーズ・アンド・ジェントルメンと始まるが、フランスでは、メドモワゼル、メダーム・エ・メッシュー(複数で言うから)と、未婚女性を最優先して言う。
私は遅くに結婚したので、30代するぎると、マドモワゼルと呼ばれるのが、なんとも居心地が悪かった。
英語国では、ミスやミセスの別があったのが、ミズに統一され、面倒がなくなった。フランスでもどうにかならないかと思っていたのだ。

フェミニズムの運動の成果で、職業などの名称の女性名詞化は、もうだいぶ前にはかられた。それまでは大臣(ministre)は男性名詞だったので、女性が大臣になってもle ministreだったが、今ではla ministreと呼ばれる。だから、以前は呼びかけられるとき、Madame le ministreだったのが、現在はMadame la ministreとなるわけだ。

マドモワゼルの呼称がなくなるのは、公的な文書においてだから、日常生活で使ってはいけないというわけではない。だから、こちらが年をとった女性とわかっていても、「マドモワゼル、ちょっとお尋ねしたいのですが。。。」などと、紳士から丁寧に聞かれると悪い気持ちではない。ただ、そういう機微にあふれた問答が消えていくかもしれない可能性は大きい。

あとは、手紙などで、夫人に書くときも、夫の名前にMmeをつける慣習をなくさなければならない。まだまだ道は続く。

光母子殺害事件

昨日、最高裁の判決が出た。上告棄却で、元少年は死刑が確定した。この事件、もう13年もたったのだそうだ。いつも写される被害者の母子の暖かい雰囲気、見るたびに、殺人犯への怒りが湧き起ったものだ。

犯行当時の年齢が18歳1カ月、少年だから、名前も出さない、精神的成熟度が低い、だからなんなのよ、と言いたかった。フランスなら成人だ。どうして日本は20歳なのだろう。
殺意がなくて、母を絞殺し、その後に強姦、11か月の赤ちゃんを床にたたきつけ、首を絞めて殺した、こんな行為ができるか、と怒りで体が震えるような思いをした。

死刑制度については、是認・否認、迷いがあって、どっちとも言えないのに、少年だから、あるいは精神障害があるから、といって極刑が免れたり、刑期を全うすることなく、釈放されたりする現行の制度にも、納得できないでいる。

無期懲役にして、「立ち直る」可能性というのはどういうのだろう。刑務所にいて、「立ち直った」ら、無期懲役がその時点で釈放になるのだろうか。「立ち直った」かどうかの判断を、刑務所でどうできるというのだろう。これが金銭の問題だったら、その金銭を返すことによって、「改悛」を示すことができるかもしれないが、殺人事件であれば、人命は戻らない。

宥しの気持ちがなさすぎるかもしれないが、このような殺人事件については、今回の最高裁判決は妥当と思っている。
被害者の本村氏が、再婚されていることに、本当にほっとしている。

確定申告しました

2月15日にスタートした確定申告、今日すませました。高額所得者というわけではありません。収入源がいくつかあるのです。といっても、本当にわずかなもの。それでも源泉徴収されているので、手続き次第では、還付もうけられます。

というより、このごろは国民の義務に目覚め、納税意欲が高まっているのです。現役で働いているときは、「税金をとられる」と表現していたのですが、このごろは「税金を納める」と言えるようになりました。Eタックスといって、インターネットでの申告も可能らしいですが、私は税務署に行って、係りの人に相談し、アドヴァイスをいただいて書類を完成させるのが好きなのです。

自分で考えながらすると1日はかかる作業を、係りの人は30分ほどで片づけてくれます。だから午前中に行って、申告をすませ、帰りにランチをするというのは、一種のレジャーです。今日は最低気温はマイナス11度でしたが、お天気はいいし、1時間のドライブは気持ちよかったです。

つれあいが仮計算をしてくれていました。1000円くらい納めることになるかな?と言っていたのですが、係りの人の計算結果、還付ということになりました。やっぱり来た甲斐があったと、よろこびながら、なんだか申し訳ないような気持ちにもなります。「納税された分からの還付ですから、いいのですよ」と言ってもらって、ほっとしたり、東日本大震災への寄付金が、ほとんど寄付金控除の対象になったりすると、また寄付しようという気持ちになったり、いろんな考えがでてくる。

帰りには、焼き肉ランチをつれあいとおごりあいすることにする。つれあいは医療費控除でやっぱり還付を受けられるそうだ。焼き肉レストランの入り口に、福寿草が咲いていた。ああ、春がきている、と春の行事を一つすませて、春の気配がうれしく感じられた。

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