冬の味覚

立春をすぎたのだから、冬の味覚とはいえないのかもしれないが、この寒さが極まるころにおいしいものの一つにカキがある。
フランスではfruits de mer(海の果物)と呼ばれるカキやハマグリ、ウニなどの海の幸がおいしい季節だ。
フランスでもお値段は高いが、この季節にオードブルとして、あるいはこれだけで、食事をすることが多かった。きりっと冷やした白ワインがあうという。私は白ワインが苦手で、赤というわけにはいかず、冷やしたロゼを頼んでいた。

殻付きの生ガキをこちらでいただく機会は少ない。自分で開けるのが苦労だから、どうしてもむきカキを買ってくる。そうすると、鮮度がどうも気になって、生のまま食べることは避ける。

お気に入りは、炒めたホウレンソウの上にやはり火をとおして、ユズこしょうで味付けしたカキをのせて食べるやり方だ。ホウレンソウと、カキの味の付け方がみそなのだが、御希望の方にはレシピーを差し上げますが。

生ウニも日本では高価すぎて、殻付きのまま食べることは極めてまれだ。フランスでは箱詰めされたウニはない。もし食べるとすれば殻のまま供される。
地中海のコート・ブルーと呼ばれる地域では、1月から3月まで毎日曜日にウニ採りの漁民が、ウニ祭りみたいなことをしているらしい。ムラサキウニみたいなウニの殻を横に割ると、ウニの身が並んでいる。それにちょっぴりレモンを絞り、小さなスプーンで食べる。

冷えた白ワインは必携だ。土地の白ワインといえば何があるのだろう。コート・デックスは白ワインもあるのだろうか。

残念ながら、このウニ祭りには行ったことがない。今ではコレステロールが気になるし、冬場に南仏へ行く機会もない。

ところで、ウニの身は性器だというが、本当だろうか。

寄付をやめたくなった日

あしなが育英会から郵便物が届いた。ちょっと分厚い。中には2010年度の寄付した金額を記したものと、ニュースレター、これからの寄付をしやすくするための郵便振替票がはいっている。それだけならいいのだが、今回は会長の写真を表紙にした「母の事故死と妻のがん死がすべての原点であり、いつまでも私をあしなが運動に駆り立てる」という長い表題のパンフレット、それプラスNHK「こころの時代」を収録したDVDが同封されていた。

やめてくれ!!と言いたい。こういう活動は、スターの人が始めるならともかく、無名、匿名、目立たずにやってほしい。このパンフレットにDVDの費用はどこから出たのだろう。育英会の広報費なのだろうか。

この育英会の活動に賛同して、すこしではあるが寄付をした。しかし、この活動にウガンダのエイズ遺児への奨学金がはいっているというので、ちょっと待って、と言いたくなっている。趣旨は大変結構なのだが、日本の交通遺児たちへの奨学金は十分に足りているのか、余っているほどなら、寄付をやめる。

ウガンダへの援助はいいのだが、これには別のNPOでも立ち上げてほしい。あしなが育英会でいっしょくたにされたくない。ニュースレターには寄付を寄せる人の70%は、ウガンダへの援助に賛同しているという。私は残りの30%にはいるわけだ。

慈善団体やNPOなど、組織が大きくなると、だんだん余分な脂肪をつけてくる。最初の目的以外に、枝葉が茂ってくる。そして会長や理事といった人たちの姿が表立ってくるのだ。

新聞などの広告に、「国境なき医師団」、「フォスターペアレンツ」、「ユニセフ」などが見受けられるようになった。こういう広告の効果というのは大きいのだろう。きっと経費を上回る寄付を受け取ることができるのだろう。

しかし、なにか違うようなきがするのは、私だけだろうか。

以前、働いていた外国の機関で、経験したことがある。この国の大統領夫人が、自分がかかわっている団体に寄付を求めるため、来日したことがある。モロッコの反政府の団体、イラクのクルド人たちの保護など、夫である大統領の外交方針と異なるところで活動しているのは、私も尊敬していた。

しかし来日は、財界などを訪問して、大口の寄付を求めるのが目的だったらしい。現職の大統領の夫人である。大使館は全行程の予行演習を行い、宿泊はホテル・オークラであった。飛行機がファーストクラスであったかどうかは知らないが、この旅行の経費はいくらかかったのだろう。また大使館側の費用は国の税金なのだ。

マザー・テレサの組織のように、本当に経費は切り詰めて、活動そのものに費用をあてる、そんな団体がもっとないものだろうか。

もうひとつ、DVDを送ってきたことに腹がたつのは、どの家にもDVDの機械があると思ってのことなのか、ということと、時間まで奪う気かということだ。

だんだん文句が多くなってきた。

略奪行為

エジプトの記事が一面から消えて、国際面に移った。相撲の八百長問題がトップを占めたことにもよる。
野党(イスラム同胞団)と当局の対話が始まったことにより、一部、通常の生活に復帰したことにもよるようだ。

エジプトの民衆運動で、死者もでたようだが、略奪行為が話題にのぼらない。すばらしいことだ。

アフリカにいたとき、数少ない商店のありかたに驚いた。ショーウインドウはない。金属製のシャッターが閉まり、入り口のドアはがっちりした金属の格子戸になっている。ガラスはない。

なんと商売っ気のないお店だろう、殺風景だ、と思ったのは、平和ぼけの日本人ゆえだ。泥棒よけなんて生易しいものではない。いったん何かが起きると、すぐに民衆の襲撃、略奪に結びつく土地柄でもある。焼き討ちのおそれさえある。

商店ばかりではない。住宅も略奪の目標にされうる。高級住宅街では、塀が高く、その塀の上には鉄条網がぐるぐる巻かれているか、ガラスの破片がとがった部分を上にしてさしてある。

窓やドア、すべてに鉄製の格子戸がついており、それが2重であったり、3重であることもある。そういう中で生活をすると、牢獄で生活しているような気分になる。

隣家の一つ、スペイン大使公邸では、数年前、それでも侵入されそうになったという。「こわかったわよ」と大使夫人が言っていた。

暴動にならずに秩序を保っているエジプト、平和的に政権が委譲されていくことを切に願うものである。

超訳ニーチェの言葉

ニーチェの言葉という本が売れているという評判を聞いた。フリードリヒ・ニーチェの名前は知っているが、浅学の身、あまりアカデミックではなかったので、ニーチェの本は一度も読んだことはなかった。

だからどこが超訳なのかわからないが、目のうろこがとれてしまうような本だ。232の項目だてで、短く、まるでノウハウもののような編集になっている。文章も短いから、とても読みやすく、理解しやすい。ニーチェの原文にあたっていないから、どう超訳なのかはわからないが、こんなに一つの文章が切れよく書いてあるのだろうかと思ってしまう。

哲学というのはこんなに実用的なのか。一つ一つにうんうん、そうだそうだとうなずいて読み進む。
しかし、232もある項目、そして、一つ一つが短いので、簡単に読み進みすぎる。何ものこらないで、いいことが書いてあっただけで終わってしまう。実用的すぎるのかもしれない。

難しい内容のなかに、きらりと自分に輝いてみえる部分をみつけると、それが残ってくれる。ところが、あまりにきらきら光りすぎているように思えるのだ。

これがこの本のいいところであり、欠点でもあるのかな、と思いつつ、本を閉じたのである。
買ったのではない。図書館から借りてきた。買おうかな?と思ったりもしたが、座右の書にはしないだろうから、やっぱり買わない。もう十分に売れているみたいだからいいでしょ。

革命

エジプトの騒動は革命にまでいたるのだろうか。革命の定義はなんだろう。

私にとっての革命は、フランス大革命である。1789年7月14日、バスティーユ牢獄をパリ市民が襲ったことから始まったといわれる。市民の襲撃によって始まったにもかかわらず、民衆革命というより、ブルジョワ革命と言われている。

先日のチュニジアは、ジャスミン革命と名付けられたようだ。その後、政府はどういうふうに組閣されたのか、議会はどうなったのか、民衆は満足しているのか、報道がないのでわからない。

大統領を追放しただけで、革命と言えるのか。体制を根本的に変えて、ようやく革命といえるなら、チュニジアにしても、エジプトにしても、形式的には、議会があり、選挙があったのだから、体制の変革とまでは言えない。

これがモロッコや、ヨルダン、サウジアラビアのように、王制をとっている国でおきるのなら、革命とはっきり言えるのだろうが。

革命は暴力的である。武器を持たない民衆が、武装し、権力に反抗するというのが、一般的モデルだろう。このエジプトのやり方は、アラブ的なのだろうか。68年のフランスでの騒動のように、舗道の表面を砕いて、投石用の石を作っている。火器はもたない。

警察は当局側、軍隊は中立、公然と武器をもてる組織がどう動くのか、ひやひやしてみている。

ドイツの統一、ソビエト連邦の崩壊、いつのまにか、歴史の大きな動きをみてきたが、このアラブの国々の動きが、また歴史の現場に立ち会ったことになるのだろうか。

火山についての考察

霧島連山のなかの新燃岳が、連日、爆発的噴火が起きている。同じ活火山の浅間山のふもとに暮らし、3年前に噴火を経験した我々にとって、本当に他人事ではない。火山灰の始末の悪さ、空振の不気味さ、思い出す。

どのくらいの期間、噴火が続いたか、もう覚えていない。そんなに長い期間ではなかったように思うが、特産のキャベツや観光地として、実害のほか風評被害に泣いたという話はきいた。

いつ噴火がおさまるのか、専門家の意見もいろいろのようだが、1年以上続くかもという説もあるようだ。早くおさまってほしい気持ちは私ももっているが、自然のなせるわざは、いかんともしがたい。

長期にわたるのは、三宅島のケースでも経験している。三宅島は全島疎開という、大胆な対策をとった。島だからできたことかもしれない。
私たちの家は浅間山から8キロのところにある。今回のような場合には、避難するかどうか、ぎりぎりの距離だろう。

去年の4月には、アイスランドの火山(Eyjafjoll)が噴火し、その噴煙でヨーロッパの空が混乱したことを思い出す。大気や海水には国境がない。制空権などは設定できても、噴煙に対し、アイスランド国内にとどまってくれなんて、言えないし、自然に対しては、政治もなんの力もないのだ。

私は信じていないのだが、浅間山の噴火を研究している人の話によると、フランス革命勃発の理由の一つに、浅間山の噴火があげられるのだそうだ。噴煙が気流にのって、ヨーロッパへとひろがり、悪天候、そして農作物の不作となり、その結果、革命がおきたのだという。

またナポレオンがモスクワ遠征をして、早い冬将軍の到来に、なすすべもなく退却をした理由に、やはり火山の噴火による天候不順をあげている説もある。

新燃岳の噴火が、宮崎県や鹿児島県に限らず、どんな影響を及ぼすのか、まだ先の話である。

聖マリアお潔めの祝日(2月2日)

今日は節分、我が家も恵方巻きを作った。そのためというのは言い訳にすぎないが、昨日のマリア様の祝日をすっかり忘れてしまっていた。仕事で出かけ、帰りがちょっと遅かったせいもある。

カトリックでは2月2日は聖マリアお潔めの祝日である。別名は主の奉献の祝日といって幼子イエスが教会に初デビューしたお祝いの日である。
この日を象徴するものが2つある。ひとつはろうそく、もうひとつはクレープである。
ろうそく:ろうそくをもった行列が行われ、光に満ち溢れた1日となる。
クレープ:なぜなのか知らないが、この日にはクレープを焼いて食べる習慣がある。

フランスの知人宅にたまたま2月2日に伺ったことがあった。ちょうどいい時にきた、と台所に案内される。これからクレープを焼くから、みてなさいという。そして、どこからか、金貨をもってきた。本物のナポレオン金貨なんだぞ、と、まずは金貨の説明から始まる。

なぜ金貨をもってきたのか、これはクレープを焼き、裏返しする瞬間に金貨をつかむことができれば、この年の幸福が約束されるのだそうだ。つかめたり、失敗したりしながら、20枚ほど焼きあげた。

クレープはまとめて食卓に運ばれ、いろんなソースをからめて食べる。日本では甘いジャムやフルーツソースなどをからめて、おやつとして食べているが、フランスでは肉や魚を煮込んだものをのせたり、メインの料理として出されることもある。

私としては、デザートとして出されるクレープシュゼットが一番すきなのだが。
いづれにせよ、カトリックでは大切な祝日である。

日本に帰ってきて、1月6日のエピファニー(御公現の祝日)や2月2日の祝日をお祝いすることがなくなってしまった。冬場で、一緒にお祝いをする友人が近くにいないこともある。
来年は忘れずにちゃんとお祝いしなければ、と自分に言い聞かせている。

エジプト危機

この1週間、エジプトの映像が毎日テレビに映っている。外国のニュース番組でも同様だ。必ず映るのはタハリール広場である。

若いころ、一人で手作り旅行というのか、エジプトを単独で旅行したことがある。ミスル(エジプトのこと)トラヴェルという東京にあるエジプトの旅行社を利用した。カイロでは団体客が利用する、ヒルトンやマリオットといった超豪華ホテルではなく、ミスルホテルという、中心部から少し離れたところにある中級のホテルに宿泊した。

このタハリール広場にはホテルから連絡バスがでるので、難なく外出はできたが、この広場、混沌、混雑の極みである。バスの発着所にもなっており、広場を横切ることもできない。連絡バスが着いたところから反対側に、国立博物館があるのだが、そこへ行くのは命がけだった。

カイロからイスラエルのテルアヴィヴまでバスが運行されている。そのバスを利用しようと、バス会社を探し出すのも、数日かかったような気がする。アラブ文字は読めず、数字すら違う形態だ。どうやって探し出したか、今では思い出さないが、どうにかバスを予約し、イスラエルへ出かけた。
またカイロでは、NHKに研修できていた放送局勤務の人の自宅を訪問するなど、一人旅の自由さも味わった。

今でも、広場の騒々しさを思い出す。路線バスからはこぼれおちそうなまで乗り込んだ乗客、ギザへバスを使っていきたいと思ったのだが、とても乗れないと思った。

20年以上たっているから、都市は大きく変化しているはずだ。だがあの人の多さは変わらないようだ。あのあふれるような人間のヴァイタリティを、今、政治の変化に結びつけようとしている。

今日、2月1日は北陸に住む女の子の誕生日だ。8歳になるという。この子と私は東京に住んでいたときに隣に住んでいた。

その子の母親とは、引っ越しのときにあいさつをいただいたし、洗濯物を干すとき、ベランダであいさつを交わす程度のお付き合いだった。

8年前の3月ごろであったろうか、実家で産んだ赤ちゃんをつれてみえた。それがその子との初対面である。3歳上のお姉さんがいるので、幼稚園の送り迎え、買い物、病院行き、外出の機会に赤ちゃんを連れていけないときには、いつでもお預かりしますよ、と申し出た。

当時は専業主婦、時間はたっぷりあった。それからほとんど毎日(土日はないが)、おっぱいのにおいのする生後2,3カ月の赤ちゃん時代から、ほんのちょっとの時間だけれど、お預かりするようになった。

抱き癖をつけてはいけないと、育児の本には書いてある。しかし、ほんのちょっとの時間だけ、しっかりその子に私のにおいを記憶してもらうため、ほとんど抱いてすごした。
だんだんに重くなり、そうもいかなくなったが、母親の手から私に移っても、泣くことはなかった。

アンティと私のことを呼ぶ。会えば抱きついてくる。私たちがつれあいの退職を機に引っ越したあとは、この地にも休みにときどききてくれる。

こんな関係がいつまで続くのか、この子が成長し、自分の世界を構築していく中に、私の場所はあるのか、離れて生活をしていると、日々の成長がみえないだけに、不安ではあるが、こんな絆もあってよかろうと、アンティ馬鹿ぶりを発揮している。

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