家族葬または自宅葬

このごろ、自宅葬というのに出会わない。もうお寺さんでの葬儀というのもない。葬祭場というのが登場してどのくらいたつのだろう。
とりもとりあえず、ご自宅へ弔問に伺い、御遺体と対面し、お別れをし、ご遺族にお悔やみを言う、といった儀式がなくなった。

亡くなられて即日というケースもなく、数日おいての通夜、そしてその翌日の告別式、そしてびっくりしたのは、それに続いて初7日の法要も行われることだ。荼毘にふす以前に初七日の法要、簡略化も進んでいる。

葬儀について考えた。つれあい、あるいは自分自身の葬儀をどうするか、である。家族葬でするのなら、葬祭場であることもなかろう。葬祭場は、設備もよく、スタッフの方たちも礼儀正しく、式の進行もつつがない。通夜の法要のあと、お清めの食事も、家族やご近所の手をわずらわすことなく、整えられている。

遺族はそれでなくても、いろいろかかわることが多いのだから、こういう風に葬儀の進行を、プロの手にゆだねるというのは便利なことだろう。

結婚式から宗教色を除いた、人前結婚式などもされるようになった。葬儀にもそれは可能なのだろうか。結婚式は挙式まで、いろんな式場を訪問したり、調査が可能である。葬式は突然だ。とはいえ、もし、今から準備するなら、おそらく、私などいやというほど時間がある可能性が強い。今、調査して決めておいたことが、10年後、20年後まで通用するかどうか、おおいに疑問である。それを毎年、改編していくだけの気力はあるだろうか。

つれあいにエンディングノートを作ってほしいと頼んでいるが、作っているような様子はない。私としても同様だ。
家族葬の究極の形で、自宅葬にした場合、僧侶を頼まないでも葬儀として成立するだろうか。お経を理解できないので、はたしてそれが供養になるのかどうか、疑問でならないのだ。そして死者を「仏様」として拝むというのが納得いかない。人間は人間なのに、という気がしてならないのだ。

私の場合はカトリックだが、まわりがそうではないので、どうすればいいのやら、残されたものは混乱するだろう。きちんとマニュアルを作っておくか、それともApres moi, le deluge!(あとは野となれ山となれ)とするか。

「死」とは予定がたたないだけに問題が多い、とフランスの友人と話していたら、スイスにいけば、予定された「死」が可能よ、と言われた。尊厳死を認めているため、制度として、自殺ではない「予定した死」ができるのだそうだ。そうなると、葬儀も自分で仕切れるものになる。

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