郵便へのノスタルジー

わが家への郵便配達は、だいたい午後2時すぎにある。自宅にいるときは、郵便車がくる気配を感じると、いそいで郵便箱のところへいく。配達の人にあいさつできるかできないかのタイミングで、郵便箱を開ける。
外出して、午後遅く帰ってきたときなど、郵便箱から何かのぞいていると、やった!!という気分だ。

それが、このごろ、空振りばかりである。何も届かない日が連続している。こうなると、ダイレクトメールでもいいからという気分だ。税金の書類や、請求書はいらないが。

郵便箱になにかはいっていると、我々も忘れられているわけではない、という安心感がある。郵便もこない、電話もかからない日が続くと、「まだ生きていますよ」というアドバルーンを揚げる必要を感じるのだ。

でも考えてみると、郵便はこなくても、クロネコメールは届いている日もある。もちろん、クロネコメールは、私信ではないけれど、ダイレクトメールや所属団体からのレターなどである。

私信なら、メールで届く。メールはメールでうれしいのだが、なにかそっけない部分もあって、手紙という暖かさが感じられない。とくに、誕生日のカードなどがそうである。ハッピー・バースデーなどの音楽入りのものもあるが、あまり楽しくない。自分でそんなカードを送れないひがみもあるのだが。

わが村の中央郵便局は、局員数名、みなさん、顔なじみである。あいさつも気持ち良くかわし、そして郵便をお預けする。そこからして、なにかしらの付加価値がつくような気がする。
メールではかたがつかないものを送るために、郵便局へ行くのが楽しみの一つである。

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