無知の知

今回、初めて「無知の知」なる言葉を知った。無知の極みかもしれない。手持ちの電子辞書でみると、広辞苑なのだが、「自分の無知を自覚することが真の知にいたる出発点であるという、ソクラテスの認識的自己反省。」なのだそうだ。

ソクラテスまで戻るのかと初めて知った。浅学の身、ソクラテスについては、悪妻の存在くらいしか知らない。しかし、「無知の知」ということばが、野田総理から、田中防衛大臣の言動について、出されたものとなると、ソクラテスの認識的自己反省と一致するものか、疑問である。

大臣たるもの、自分の無知を自覚したら、さっさと辞任してほしい。自分の無知を自覚して、それを出発点にされるほど、政治に余裕はない。ましてや、防衛大臣職なのである。もしかしたら、一瞬の判断が求められるかもしれないのに、そこで自分の無知を自覚されていたら、日本は滅亡する。

大臣には、はったりでもいい、もっと知恵と判断力のありそうな人が望ましい。田中大臣を拝見していると、委員会での質問は、質問書が先に出されているはずなのに、ご理解されていない様子がありありだ。申し訳ないが、認知症の気配すらみえる。

野田首相も、「無知の知」と、そんなに悠長なことを言っていられるのだろうか。実際はうんざりしているのだろう。
こういった閣僚の存在で、いよいよ信を失っていることを、認識なさらないのだろうか。

辞書・事典大好き

先日、本屋大賞が発表された。今年の大賞は、三浦しをん氏の「舟を編む」という本だった。三浦氏の著作は、いくつか読んだことがある。だからきっと面白いだろうと思った。村の図書室にいくと、ちょうどその本が近着コーナーにあり、早速借りてきた。

もう42万部も売れているという。本屋大賞は、直木賞などに対抗して、賞とは縁がないけれど、応援したいという著者・著作を本屋という現場から推すための賞なのだそうだ。三浦氏はもう直木賞も受賞し、作家としても売れっ子だから、本屋大賞をあげる必要もないらしいが。

この「舟を編む」というのはまた面白かった。国語辞典を編纂する編集者たち、あるいは編纂の主役となる学者を組み入れてのストーリーなのだが、「言葉」というものが、こんなに深く扱われるものだとは思わなかった。実際は、こういう世界があることは承知していたが。

自分でも外国語の言葉集めをしたことがある。そのとき、出典というのがとても大切であることは、先輩から注意をされていたのだが、面倒なのでほとんど省略していた。出典がなければ、信憑性もないらしい。自分のメモ用として作っていたので、それはそれでいいのだが、人に紹介するとき、出典がないことで説得力を欠くのだ。

外国語から日本語へ翻訳するとき、わからない言葉を調べる。辞書1種ではすまない。何冊かチェックする。そのとき、辞書によって、訳語の種類が変わることがある。古典的なことに詳しい辞書、新語がたくさんはいっている辞書、特徴があることに気付く。

「時事フランス語、読解と作文のテクニック」(彌永康夫著)という本がある。フランスの時事問題を解説しつつ、仏訳するテクニックを教えてくれる本だ。そこには、訳すべき文章に書かれた状況や裏の事情などを勘案しつつ、和仏の辞書ではなく、仏仏で調べることで、かつ仏仏にあることば一つ一つを、どれが一番適切かということを考えるようにと著者は言う。

このごろ、いかにも浅い、軽い言葉があふれているから、こういう言葉を大切にする本を読むと、うれしくなる。

象狩りに出かけた国王

スペイン国王がボツワナへ休暇で狩りに出かけた。個人的な休暇で、公表されていなかった。こっそり狩りを楽しんで帰るはずが、骨折してしまった。それで狩りにでかけたことがわかってしまった。
それのどこが悪い、という人もいるかもしれないが、スペインの現状を考えると、国王の私的旅行にも非難の声があがる。

まず、スペインの現状をみよう。周知のことだが、ギリシャの次はスペインか?と言われるほど、財政状況が悪化している。緊縮財政から、500万人の失業者がいる。そのうちの200万人は、食うや食わずや、の状態にあるとか。
 国王自身、先月には、「若者の失業問題を考えると、眠れない」と言っていたのだが、それとは別に大好きな猟にでかけたのだ。象狩りは、ダイナミックで、スポーツマンの国王にとって、行かずにはおれなかったのだろう。

しかし、国民はあきれている。象狩りの費用は、1頭につき、3万7000ユーロ(400万円弱)はかかるという。全体の費用がいくらなのか、それらの費用が税金からか、王室費あるいは国王自身のポケットマネーだったのか、それは明らかにされていないのだが、国民が困窮のなかにあるとき、この浪費!!!

そして、銃の問題がある。復活祭の休暇中、国王の外孫が銃の暴発でけがをした。狩猟といった貴族のスポーツを伝統として継承させようとしたのかもしれないが、またこの事故は国王の責任ではないけれど、気の緩みが感じられる。

また動物愛護の問題もある。

それにしても、東洋のある国の象徴たる存在は、国民の苦難を、悲しみを自分のものとして、おつつしみの生活をなさる。この違いはどこからくるのだろう。

水仙街道

吾妻町原町から渋川まで、国道をさけて県道を通る。この通りは、通称「日陰道」というそうだ。日向道というのは国道145号のこと。この日陰道は、別名で水仙街道とも呼ばれる。2車線のそれも狭い道路で、民家が道に沿って続いている。狭いので、通行をきらう人もいるが、私はその狭さが、生活感があって好きだ。

通りに沿って、春がすすむと、水仙が咲き乱れる。それだけではない。梅、モクレン、レンギョウ、雪柳、などに交じって桜が咲き始め、足元には水仙のほか、ムスカリ、芝桜、スノードロップなどが咲いている。水仙が咲くころには、福寿草やクロッカスは終わっている。

わが村はまだ春浅きで、梅も咲いていない。しかし、1時間も車で移動すると、その街道は春を満喫している。
ようやく長い冬が終わった、これからは厳しさより暖かな、豊かな時間となりますよ、と言われている気分になる。

わが家の庭も、少しずつ春の気配は感じられる。昨日、庭の枯葉を掃除したら、水仙の小さな芽がのぞいていた。フキノトウも庭のあちこちに小さな丸い姿をだしている。まだ開いていない。昨年、たくさんに埋めたチューリップの球根からも芽がでて、日に日に伸びてくる。なにもないと思ったところから、サクラソウ、ヒヤシンス、スミレと次から次へと芽ぶきがみえる。

こうやって、春がくるから、長い冬も耐えられる、とつれあいと今年も無事に冬をすごしたことを喜びあう。
畑もそろそろ土づくりをしなければいけないころだ。今年は何を植えるのか、つれあいは早速、ジャガイモの種イモを買ってきた。私はラディッシュ、ルッコラ、ズッキーニ、など西洋種の担当だ。実際に種をまいたり、植えたりするのは、5月も半ばのことだけれど。まだまだ霜に注意だから。

エンディング・ノート(2)

この5月につれあいと二人で2週間の外国旅行をする。一緒にいくのはいいのだが、もしものことがあると、それこそエンディング・ノートを残しておかないと、残されたものが困りそうだ。

昨夜、寝付きが悪いままにいろいろ考えた。二人が一緒に死亡した場合、葬儀はつれあいの娘たちが喪主となってくれるのだろう。そうなると宗教は仏教でということになるのだろうか。それは私としては、ちょっと抵抗がある。そうなると、別々の葬儀となるのか。それも面倒だろう。無宗教の葬式か。つれあいはどうだか知らないが、私はカトリックの葬儀をしてほしい。

と言いながら、私の兄弟姉妹には、カトリック信者はいない。どうすればいいのか、わかっている人間はいない。所属の教会に、死亡した場合の葬儀や墓のことなど、聞くべきだと思いつつ、まだ聞いたことがない。カトリックの友人に頼むべきなのだろうか。夫婦の宗教が異なるというのは、なかなか問題が多い。

シミュレーションをいくつか考えた。たとえば、私が60代で死亡するとするなら、つれあいはまだ存命中であろうから、つれあいが全てを執行してくれるだろう。
70代となると、10歳違いだから、つれあいは80代、生存の可能性は半々かも。そうなると、私の後始末などは、だれに依頼すべきだろうか。

60代の私が真剣に考えているのに、つれあいはどうなのだろうか。お互い、独立採算でもないが、別々の会計なので、どこに通帳や印鑑があるのか、知らないし、重要な書類の存在も教え合っていない。
大事なことというのは、なかなか話し合いづらいものだ。

エンディング・ノート

昨日(4月13日)、NHKの首都圏特報では、終活について放送した。終活、つまり死への準備をどうするか、ということだ。
このことは、常に考えている。

以前、つれあいの親族がなくなったとき、葬儀に出席したつれあいがエンディング・ノートを持ち帰った。葬儀場にあったのだそうだ。豪華なものではなく、シンプルなものだった。1冊ずつ分け合って、それぞれが書き込むことにした。しかし、つれいのものは白紙のままである。

つれあいと私は晩婚である。つれあいは再婚、最初の妻とは死別、そこに2人の娘がいる。私は初婚、子どもはいない。晩婚だから、人生のほとんどの部分は知らないままだ。かろうじて兄弟姉妹までは知っているが、友人関係、特に小中高校時代の友人などは知らない。職業上の知人・友人にしても、結婚してからあった人たちならともかく、ほとんど知らないままだ。

「死」については、本当に難しい。とくにつれあいが病気がちになってきたとき、いろんな面で、エンディング・ノートに記載するか、細かく話し合っておきたいところだが、話すと「死」が近まってくると思うのか、つれあいは避ける。
辺鄙なところに住んでいるから、葬儀は家族葬にするわよ、と私は言うが、つれあいは返事しない。だから不同意なのだろうと思う。しかし、こんな辺鄙なところで大掛かりな葬儀はできないし、ご案内も出せはしない。だからきっと家族葬、本当に配偶者たる私と娘たちだけですることになるだろう。

私の場合はどうなるのだろう。つれあいより先に逝くなら、つれあいが仕切ってくれるだろう。しかし、つれあいが先に逝ったあとだと、だれにゆだねるべきか。つれあいの娘たちだろうか。養子縁組はしていない。それとも遠隔地に住む弟か。これは何年後かということも、考慮すべき要因ではあるが。私が100歳まで生きたら、弟でも生き残っているかわからない。
私の場合、もう一つ問題がある。死後、どこに葬られることになるか、だ。つれあいの場合、お墓は東京のお寺に用意されている。しかし、私はカトリックなので、その墓には入らない。といって実家の墓もお寺、母はプロテスタントの信者で、教会の共同墓地にはいっている。どうすべきか、もう考えておくべき時なのだ。

「美人薄命」とは言えない年齢になったけれど、年齢が死の順番を決めるものでもない。つれあいより、病気の数は少ないけれど、ある日突然という可能性はある。外出の機会、つまりは運転の機会も多いし、事故に遭う可能性もあるのだ。

書くべきは私の方かと思いながら、エンディング・ノートは積み重ねた本の下敷きになっている。

大山鳴動して鼠1匹

今日はニュースが多すぎて、フォローできなかった。まず、朝7時59分ごろ、BSニュースで、一言、「北朝鮮のミサイル発射は失敗」ということを言っている。あわてて、デジタルのNHKにするが、「梅ちゃん先生」をやっているし、テロップもでない。民放の同じだ。

BSはその後、海外ニュースが続くし、つれあいは誤報だったのかな?と言う。その後、外出したから、ニュースは聞けなかった。昼には、AIJの浅川社長が、国会で証人喚問をされている。その中で、テロップが流れ、木嶋香苗に死刑が宣告されたという。

昨日は、京都で7人も死亡するという暴走事故があった。暴走した運転手は、てんかんの持病があったという。以前にもてんかんの人が、クレーン車かなにかで、子どもの列につっこんだことがあったわね、とてんかん持ちの人への今後の反応が気になる。

そこで、北朝鮮のミサイル発射については、いろいろな問題点が明らかになった。まず、J-ALARTを発動しなかったということ、これはいわゆる戦時中の警戒警報発令に相当するのだろう。予告をされていたのだから、時間はたっぷりあり、テストをしたりして、万端かと思いきや、混乱させてはいけないと、発動しなかったという。

PAC3も配置しただけだった。はたして、これが効力を発揮できたのやら、防衛省はほっとしたのか、残念だったのか。
北朝鮮の今回のたくらみは、日本にとって、防衛システムを検証するのに、とても時宜にかなっていたのではないだろうか。
情報収集能力、官邸の危機管理、防衛省の対応能力、国民への情報開示、すべてに肩透かしをくった印象があるけれど、失敗に終わったから、肩透かしですむが、誤発射で、また日本領土に落ちたりした時、どんな対応ができたのだろう。

つくづく日本は平和漬けの国だなと感心したり、あきれたりだ。

クイズ大好き

毎週月曜日、テレビ朝日系列のQさまというクイズ番組をみている。この番組は、ほとんどが国語系の問題なのだが、そのほか、社会(地理、歴史)、英語、理科などの問題が出される。
出場者はタレントだが、だいたいが大学卒、それも東大や京都大学といった、偏差値の高い大学出身者が多い。

クイズは大好きだ。私が20歳くらいのとき、大阪のある局で、「アップダウンクイズ」という番組があった。それに出演したことがある。当時、大分に住んでいて、この番組は映らず、全く知らない番組だった。それを福岡に住んでいる従姉が、私の名前で予選に応募し、ひっかかったのだ。

当時は大学生で、好奇心にはあふれているし、雑学に詳しいと自認していた。福岡まで予選を受けにいった。予選には通ったのである。福岡・大阪の往復チケット、それに宿泊代も出たのかもしれない。ただで旅行できると、番組をみたこともないのに、ペーパーテストの成績だけで出かけたのだった。

アップダウンというのは、答えられれば座っている椅子が1段アップし、間違えるとダウン、そして10段、つまり10問答えられると、海外旅行だったかもしれない、豪華賞品がもらえるというのだったと思う。1問正解に対して、1000円がもらえる。結果は惨めなものだった。知っていることも、あがって答えが出せない。番組を知らないことも戸惑い、あがってしまったのだ。

うん十年後の今も、クイズをみては、答えをだしている。Qさまの問題は、ある程度レベルが高いし、答えられないことも多くて、くやしい思いをする。つれあいと知識の競いをするのも面白い。お互い、教養がもっとあると思い込んでいたのが、意外や意外、たいしたことがないということに気付いたりだ。

出演者の博識ぶりに感心する。漢字検定1級や準1級はざらだ。しかし、しかしだ。かれら(彼女ら)のなかで、字がきれいな人がとても少ない。それに筆順がまったくでたらめだ。漢検には筆順などはでないのだろうか。
そして、字は人柄をあらわすと、小さい時に言われなかったのだろうか。と思いながら見ている。
(といって、見ているこちらも、そうきれいな字をかくわけではないが、筆順は気にしている)

村の検診

4月は村の検診の月である。昨日は、地区の多目的センターで、大腸がん、胃がん、肺がんの検査が行われた。

一度、4月に長期の海外旅行をして、この検診を受けなかった年があった。つれあいは全部受けていたが、私はパスしたので、7月ごろ、人間ドックを別に受けた。脳ドックも申し込んだこともあって、とても費用がかかった。それと、車で1時間のところの病院まで、早朝から朝食抜きで運転して行かなければならないことに疲れて、手軽な村の検診をうけることにしたのだ。

村の検診対象は、このほか、男性だと前立腺がん、女性だと乳がんや子宮がんなどの項目も加わる。また、総合的な特定検診というのも行われる。
全てを受けても費用は5000円もかからないだろう。

各地区に検診のバスが出張し、午前中あるいは午後といった時間帯だけですむ。胃の検診などは受ける人が多いことと、バリウムを飲んでレントゲンとなるため、時間がかかり、待ち時間は多いけれど、それでも都会での受診に比べると短時間ですむ。

費用と簡便さで、必ず4月は旅行の予定はいれないことにしている。
そして昨日、第1弾が始まったわけだが、いろいろ気付いたことがある。くだらないことばかりだが、こういった健康診断を受けることができる、という人は、心身の機能がある程度はあるという証拠だ。

まず大腸がんの検査といえば、ただ便をとって提出するだけだが、便をとるという作業、けっこう大変だ。年齢とともに、便通がきままになり、朝、定時にかならずというわけにはいかない。採便をする日(2日)は、予定をいれず、自宅で、常に待機の状態にしなければならない。
今年は、採取を簡単にできるよう、便器のなかに浮かす紙が添えられていた。これは大きな進歩である。

小学生のころ、そういえば、検便というのがあって、自宅で便を採取して、登校することがあった。今のように、容器が支給されず、自宅にあるものですませていたような気がする。フィルムの容器が便利だったけれど、数があるわけではなく、姉や従姉に先にとられて、泣いてしまったことなど、記憶に残っている。

それは余談だが、私はバリウムがだめで、胃がんの検査は受けない。バリウムを飲めないことと、バリウムを飲んだあと、便秘が1週間は続くことの恐怖がある。下剤は飲むのだが、あまり効果がないのだ。そんなこんなで、体調を崩すので、胃がんの検査はパスである。

こういった検査で、かえって体調を崩すこともあるのではないだろうか。朝食をとれない日は、体力がない。
問診票に書き込んだり、検査をうけるための前作業、いろんなことを考えると、ある程度の能力をもっていないと、受けるまでにいたらないのではないだろうか。

次の検査の日は月末だ。この時には、体重測定もある。それまでに3キロやせないとメタボに分類されそうだ。つれあいは後期高齢者、メタボ検診からはずされたと言っている。もうどうでもいい年齢にいれられたとひがんでいるので、それなら全部受けなければいいのよ、と言うと、いやいや、とまだまだ生き残りをかけている。

春のイベントの一つである。

長寿の地フンザ

先日から、パキスタン北部のギルギットやフンザというところが、紛争地となり、77名の日本人観光客が身動きできなくなった。幸い、日本政府の働きかけで、ギルギットから軍用機でパキスタンの首都イスラマバードへと移動し、昨日、日本へ帰国されたようである。

そんなニュースを見て、私もフンザだったら行ったことがある、と言うと、つれあいは、「あんたは本当にいろんな所へ出かけたものだね」と感心してくれた。と思ったら、呆れていたのだそうだ。

何年前になるのか、さだかな記憶はない。まだ独身時代に、東京で知り合ったパキスタン外交官が本国へ戻ったので、訪問したのである。当時、母も健在で、私の海外旅行には必ず同行していた。母を伴い、フランスとパキスタンへの旅行をしたのだ。

パキスタンは、個人旅行にはとてもむずかしいところだった。友人へは、東京でもらっていた番号にパリから連絡したが、それは本人のものではなく、親戚のものだった。もうパキスタン航空のチケットも手配済みなので、連絡がとれようととれまいと、イスラマバードに降り、一番いいホテルへとタクシーではいった。
幸いというのか、彼のカンがいいのか、ホテルに彼とその妻、そして3歳の息子が待っていた。"Welcom to Pakistan"と3歳の子が挨拶してくれる。

ホテルを予約していたわけでもなく、彼らにつれられて行ったのは、公務員の宿泊施設なのだろうか。彼らも帰国して間がなく、住宅の手配ができていなかったので、公務員用の施設にはいっていた。私たちにも1部屋が提供された。

彼の奥さんの手助けで、旅行社で手配してもらい、母とラホールへと2泊くらいで出かけ、あとは、イスラマバード見物くらいだった。母には、そこで先に日本へ帰ってもらった。私は一人残って、フンザへ出かけた次第である。モヘンジョダロとフンザの選択肢があったのだが、モヘンジョダロはとても暑いということで、フンザを選んだ。

旅行社で、車1台、運転手、ガイド、いづれも男性、を依頼し、私一人が旅行者として出発した。どういうルートでどのくらい時間がかかったか、もう忘れてしまったが、トイレがないことには困った。昼ごはんを食べるレストランにはあるだろうと思っていたのだが、ガイドに聞いてもないという。
外で適当に、と言われても、花も恥じらう独身女性、そんなに簡単に外でできるものではない。でもやむなくやった。

そしてフンザに到着したが、何もないところだった。現在住んでいる村にある万座温泉と高度がほぼ一緒らしい。峠を一つ越えると、中国だとか。ヒマラヤ山脈のなかにある。見渡す限り、高い山が連なっている。ガイドに山の名前を聞くと、教えても仕方ないと思われたのか、本当に名前がないのか、あるいは彼が知らないだけなのか、山としか言わない。4000メートル級の山はざらなので、一つ一つに名前がないというのだ。

フンザに2泊か3泊かしたのだが、何もすることがなかった。ニュースでみていると、花がきれいで人気があるというが、私が行った季節がいつだったのか、花はなかった。日中は村落の中を歩き回り、戸外で行われている小学校の授業風景をじっとみているくらいだった。
夜は寒く、お湯は出ず、布団は中国製で、十分な暖かさはなかった。ガイド、運転手とともに、サロンのような部屋で、テレビで放送されるインド映画を毎晩みた。筋書きがシンプルなので、結末を予想して言うと、ガイドが見たことがあるのか?とびっくりしていた。

何を見た、何をしたという思いでもないが、フンザに行ったことは、強く印象に残っている。中国との距離の近さ、次回は中国から峠を越えてくるわね、と宿の主人に言ったものだ。
帰りはきっとギルギットからだっただろう。一人、飛行機に乗せられて、イスラマバードへと帰った。別れ際に10ドルずつ、チップを払った。十分なのか、不十分なのかはわからないが、彼らはとても喜んでくれていた。

イスラマバードの空港から、宿舎に戻るときの苦労もまた記憶にしっかり残っている。なぜかタクシーが使えず、何をつかったのやら、無事に帰れたのが不思議である。

そんな苦労話をつれあいに話すと、「よくぞご無事で帰ったものだね」と言ってくれる。当時の情勢がどうだったか、今のような不安定な状態ではなかったのだろう。
パキスタンで買った衣装、アップリケの布(これはカラチで別の時に買ったものだ)、ウサギの毛皮の帽子など、まだ残っているし、使っている。

それらを見るたびに、フンザの夜を思い出す。寒くて凍えた夜だ。もう一度行ってみたいと思うのはなぜだろう。つれあいは、私の話しを聞いただけで、自分はごめんだねと言っているが。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。