桜だより

各地の友人たちが、親切に桜だよりを寄せてくださる。テレビでは、特に東京の桜の咲き具合を毎日放送する。くやしい!!
わが村では、常に後塵を拝する状況にある。だいたい、ゴールデンウィークに駅周辺の桜が満開になる。私たちが住んでいるところでは、ゴールデンウィーク明けだ。

私の性格としては、人より先に桜が咲いて、うらやましがらせるのが好きだ。ところが、春の訪れはいつもドン尻になる。

そして東京のお花見風景をみるたびに、昔の観桜会を思い出す。何年続いただろう。テレビ局に勤務する友人から、観桜会をやろうという誘いに乗って、毎年、友人たちとお花見をした。場所は、六本木、テレビ局内の庭園だった。

庭の真ん中に池があり、その周囲に桜が植えられていた。ぼんぼりもともされ、夜桜が池に映ってとてもきれいだった。桜の本数からいえば、たいしたことはないだろう。しかし、上野や墨田公園などと違い、人にもまれるということはない、とても優遇された花見だった。

そのテレビ局も再開発がされて、その庭も形をかえた。テレビ局の友人たちも、退職したり、移動したり、残っていない。私も地方に住んでいる。いつしか、お花見は消滅した。
とてもなつかしい行事だった。雨になったこともある。雪が降ったこともある。各人に配られたビールの缶が、あまりの寒さに飲みあげられず、最後まで持ち続けたこともあった。
2時間ほどの宴会のあと、中華料理店の酢そばを食べるのが慣例だった。

個人的には、青山墓地の桜並木潜り抜けが大好きだった。一方通行の狭い桜のトンネルをくぐると、すごい迫力があった。

桜の名所を死ぬまでに全部見たい。毎年、桜だよりを聞くたびに思うことだ。今年は上田城をと思っているが、はたして、行くことができるだろうか。

復活祭

4月8日、つれあいはお釈迦様の誕生日だと言ったが、クリスチャンの私にとっては、今年はご復活祭にあたる。キリストのご復活については、疑問もあるのだが、この日、ごミサに与らないと、1年が始まらない。洗礼を受ける前は、クリスマス信者だったが、洗礼を受けてからというもの、復活祭・クリスマスだけ教会に来るという信者が多いことに気付いた。

洗礼を受けて15年になる。南仏にいたときのことだった。復活祭の前日、夜のミサのときに受洗した。フランス語で教義を学んだので、ほとんど理解したとはいえない。これが日本語でも理解できたかな?と思っている。

ごミサでの歌は、復活祭の日はほとんどラテン語になる。キリエとかパックス・ドミニ(主の平安)、アニュス・デイ(神の子羊)、日頃は聞かないことばが続く。ラテン語ではちんぷんかんぷんだが、キリスト教においては、世界共通語でもある。
ある年、フランス人の団体が春に訪日した。京都でご復活祭のごミサに与るという。言葉のことを心配したが、半分はラテン語だからわかるのだそうだ。

全能の神よ、あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、永遠のいのちの門を開いてくださいました。主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかるわたしたちを、あなたの霊によって新たにし、永遠の命に復活させてください、とお祈りするのだが、ぴんとこない。

ぴんとこなくても、ごミサに与って、安心している。きっと救われるのだろう。

異常な出産

今日のヤッフー・フランスで、2つの出産記事をみつけた。
一つは、飛行機内での出産である。アメリカからアフリカへ飛んでいた飛行機内で、産気づいた女性がいたという。ベテラン乗務員が、破水をしているか聞いたら、しているという。機内に幸い産科医がいたとかで、無事出産したとか。

こういう場合の生まれた子どもの国籍など、いつかなにかで見た記憶があるのだが、忘れてしまった。この記事の中にはそれに関しての記載はなかった。

もうひとつは、コロンビアでのことで、10歳の女の子が出産した。猛烈な腹痛を訴えて入院したのだが、39週になっていたという。帝王切開で出産したとのことだが、10歳の女の子が、と国内で波紋をよんでいるらしい。しかし、彼女の部族ではそう珍しくないことだと、出産を担当した医者は言っているとか。
父親の特定は記事の中ではされていないが、30歳くらいの男性という。

日本では14歳の出産というのがテレビドラマになったけれど、それも十分にショックなことだが、10歳ともなると、初潮が始まったかどうかのころだ。
韓国の歴史ドラマをよく見ているが、韓国では王朝時代、世子には10代初めのころに妃を決め、結婚させていたとか。同褥するのがいつなのか、それはわからないが、昔は栄養状態も今ほどによくなかっただろうから、早期の妊娠というのはなかったのではないだろうか。

先日来は、NHK夕方の放送で、不妊や卵子の老化などを取り扱っていたけれど、一方では油断も隙もないといえるような出産があり、片方では、準備に準備を重ねてもどうにもならないでいる。
子どもは天からの授かりものと思いたい年代だが、時代は大きく変わっている。

ギリシャの自殺

ギリシャの年金生活者が、年金減額で生活することができなくなったと、自殺したことが大きく報道されている。
何という悲劇だろう。年金減額で、生活そのものもだが、持病の治療薬も買えなくなった、ゴミ箱をあさるようなことになる前に、と誇りある方のようだ。この自殺で、政府の緊縮財政に対する国民の不満が再出現しているという。

どう考えたらいいのだろう。日本で見られた飢餓による死、孤独死、そうなる前に、というこの方の状況は、どうしようもなかったのだろうか。
年金生活者として、若い人たちは、もらえていいわね、と言われるが、額面通りにもらえているわけではない。介護保険は4月から30%アップ、国民健康保険も免除されないし、税金も納めている。
もし、ギリシャ的な緊縮財政を実行することになり、一律2割とか3割カットとなると、生活できるかどうか、私たちも疑問である。

この自殺という行動は、ギリシャ政府の施策への批判あるいは非難なのだろうか。政府に他の方法はあったのだろうか。国家自体が破産しそうなとき、国民はどこまでその共同責任を負うべきなのだろうか。
外から見た場合、この自殺という行為は、過剰な反応のようにも思える。この行為によって、せっかく平穏になっていた国民の意識が、再び反抗へとむかいそうだ。

だからといって、政府に対して、従順にせよ、というつもりもないのだが、国民も大所高所にたつ必要があるのではという思いもある。

ユーロ危機は、ギリシャからスペインに移りつつあると言われているが、スペインではEUで失業率がもっとも高いという。それもこれも、緊縮財政がゆえという。
放漫経営のつけなのに、緊縮にしてもだめだというし、どうすればいいのだろう。迷路にはいりこんでしまった。

大阪(近畿地方)、独立しては?

橋下大阪市長の言動がトップニュースになっている。大阪府、大阪市を勢力下において、これから国政に挑戦するとのことだ。

今日の外国ニュース、おそらくBBCだったと思うが、スコットランドが独立しようとしている、といったニュースがあった。イギリスの事情にはうといのだが、日本でイギリスとひとくくりにするけれど、正式の国名は、連合王国で、イングランド、スコットランド、北アイルランド、ウェールズなどが連合した形になっているらしい。特にスコットランドは、イングランドと別の存在であることを強く主張している。

フランスでも面白い光景をニュースで伝えていた。それは4月22日(第一回投票)に行われる大統領選挙にあわせて、いろいろな地方の特異性をもっと出したいという地方自治主義者のデモである。ブルターニュ、バスク、ラングドック、コルシカなど、独自の言語ももっており、それらの言語をフランス語とともに、学校で教えるようにという主張もある。

これらの地方は、独特の言語を持っているということでも、独自性があり、1970年ごろまでは独立運動すらあった。コルシカは、特別の地方議会ももっている。
中央政府との関係、財政問題など、どうなっているのかわからないが、常に中央からの分離を願っている。

近畿地方もこういった形での独立をしてはどうだろう。橋下氏は大統領になればいい。日本という国家だと、天皇を元首としていただいているので、首相の直接選挙すらできない。
近畿地方の規模からいけば、十分一つの国家として成立しうるのではないだろうか。

などと、彼の勇ましい言動をみていて、思った次第である。

春の嵐

昨日の暴風雨はすごかった。雨は降ったけれど、それより風だ。朝からテレビは西日本の災害について報道している。わが家は午前中は雨も降らず、曇りで穏やか。1時間ほど、外での仕事ができた。

お昼すぎから雨が降り始め、風を意識したのは夕方からだった。4時すぎに空は真っ暗、風もひどくなってきたので、早目に雨戸を全部閉めた。そうすると、室内の音が聞こえるだけで、外の音には気がまわらなくなる。
テレビでは、各地の様子を写しているが、家の中でみている分には余裕だ。道路にたたきつける雨、次々に運休となる鉄道、空の便やフェリーは全滅、道路の閉鎖もでている。

「都会は大変ね」といいながら、一応、早目に夕食をすませ、停電がおきても大丈夫なように、懐中電灯とろうそくの準備をする。ときどき、架線に倒木があって、停電になることがある。
ところが、2階の寝室で、テレビを消すと、風の音のすごいこと!!庭木といっても、山の中だから、とても高い。
そんな木々がしなっている。もし倒れてきたら、と思うと、落ち着かない。

この暴れん坊低気圧は、今日は東北から北海道へと移動している。これはメイストームと呼ぶべきものだそうだ。ところが4月初めにおきてしまった。日本の春は、桜が象徴するように、やわらかい、暖かなもののはずなのに。

フランスではよくこういった暴風雨をきく。とくにブルターニュ地方などはひどい。南仏ではミストラルという風が1年を通じて吹く。これは北からの強風をいうが、アフリカからの熱風のシロッコもある。
フランスでは風速を時速でいうので、単位がメートルではなく、キロメートルになる。一時は換算して、日本でなら秒速何メートルと思っていたが、いつの間にか、時速になれたものだった。でも時速というと、どうしても車の速度を考えてしまい、風の強さより、速さとみていた。

ミストラルは、一端吹き始めると3日続くといわれる。暑い夏には、この風で涼しさを得られると、南仏の人はきらってはいない。しかし、やっぱり暴力的な強風はいやなものだ。

今朝も強風は残っており、道路には周囲から落ちてきた枝が散乱、運転しづらかった。幸い、倒木はなく、鉄道も動いていた。
本格的な春はまだまだ遠い。

キリストご復活への疑問

今年は4月1日が枝の主日、1週間後の4月8日がご復活祭になる。今は聖週間と呼ばれるキリスト教では大切な時期である。
カトリックの洗礼を受けて15年、教義をきちんと勉強してこなかったせいなのか、この期間になると、なんだか落ち着かない。

12月25日のクリスマス(キリスト生誕祭)は素直にお祝いできるのだが、クリスチャンにとって、クリスマスより大切だと言われるご復活祭は、どうも苦手である。
一つには移動祝日で、毎年、日が変わることもある。生誕の日は変わらないのに、死亡の日は変わるのが納得できない。

生誕2000年を超えて、なくなられてからもそれに近い年数、何があったのやら、このご復活の奇跡が信じられないでいる。
そして、キリストが復活されて、全ての悪を取り除き、私たちに幸せや善なるものを残されたというが、この世の中、悲惨なままである。

信者の中で、「キリストのご復活おめでとう」とお祝いを言いあうが、何も変わらないのに、何が「おめでたい」のか疑問で仕方ない。
こんな疑問を先輩信者にぶっつけると、この異端者はなんてことを言いだすのでしょう、といった表情をみせられるし、神父様やシスターたちは、教条的な説明をなさる。破門されても困るので、納得したような顔をするが、納得しきれるわけではない。

「キリストの愛」を信じているので、それだけでいいのかと信者で居続けているのだが、こんな疑問を持っている私を、どうかイエス様、不届きものとはおっしゃらないでください。

記憶の誤差

3月31日の夜、旧友たちと会いました。旧友というのは、もう30年来の友人だからで、現在も友人関係にあるのですから、現友と言うべきかもしれません。ただ、会う回数が毎日とか毎週などではなく、年に2、3回になってしまったので、旧くからの友人となるわけです。

昔話も出ました。ところが、お互いの記憶に誤差があることがわかりました。小さな誤差といえる、そうたいしたことではないのですが、年齢のせいか、その話題に対する立場の相違なのか、男女の記憶能力の差なのか、そこが気になりました。

というのは、このごろ、とみに記憶力の低下、特に昔の記憶がスーッとなくなってきているのです。その現象が友人にも表れての誤差なのかな、という気もします。

先日、アメリカからメールが届きました。30年以上前の知人です。彼女はある旅行社で働いていました。私はその旅行社を利用して、中東旅行をしたのですが、帰国してからも交流が続き、わが家へもいらしていただいたり、当時は相当親しくお付き合いしていたのです。

いつしか交流も途絶えてしまいました。そしてある日、私のメールアドレスを出版社から聞いたということで、メールが届いたのです。「私のことを覚えていますか?」と書かれていたのに、すっかり記憶がなくなっていたので、「覚えていません」と答えてしまいました。

そして時間をおいて、思い出したのです。その後、もう一度メールを送りましたが、最初にあまりきっぱりと「覚えていません」と書いたので、きっと気を悪くされたのでしょう。お返事はありませんでした。
いったん思い出すと、次々に記憶は戻ったのですが、すでに遅しでした。

そういった現象が、31日の友人との会話にも出てきました。こちらが覚えていること、それを友人は覚えておらず、友人が覚えていることに、そんなことあったっけ、とこちらは記憶をとり戻すのに必死になります。

つれあいは記憶だけではない、思い込みも問題だと言います。言ったつもりが、言ったはずだと記憶のなかにインプットされている場合がこわいといいます。
認知症の始まりなのか、歳をとると、話題が昔話になるだけに、この記憶の誤差はたくさん発生しそうです。
笑ってすませられる話題だけならいいのですが。


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