エンディング・ノート

昨日(4月13日)、NHKの首都圏特報では、終活について放送した。終活、つまり死への準備をどうするか、ということだ。
このことは、常に考えている。

以前、つれあいの親族がなくなったとき、葬儀に出席したつれあいがエンディング・ノートを持ち帰った。葬儀場にあったのだそうだ。豪華なものではなく、シンプルなものだった。1冊ずつ分け合って、それぞれが書き込むことにした。しかし、つれいのものは白紙のままである。

つれあいと私は晩婚である。つれあいは再婚、最初の妻とは死別、そこに2人の娘がいる。私は初婚、子どもはいない。晩婚だから、人生のほとんどの部分は知らないままだ。かろうじて兄弟姉妹までは知っているが、友人関係、特に小中高校時代の友人などは知らない。職業上の知人・友人にしても、結婚してからあった人たちならともかく、ほとんど知らないままだ。

「死」については、本当に難しい。とくにつれあいが病気がちになってきたとき、いろんな面で、エンディング・ノートに記載するか、細かく話し合っておきたいところだが、話すと「死」が近まってくると思うのか、つれあいは避ける。
辺鄙なところに住んでいるから、葬儀は家族葬にするわよ、と私は言うが、つれあいは返事しない。だから不同意なのだろうと思う。しかし、こんな辺鄙なところで大掛かりな葬儀はできないし、ご案内も出せはしない。だからきっと家族葬、本当に配偶者たる私と娘たちだけですることになるだろう。

私の場合はどうなるのだろう。つれあいより先に逝くなら、つれあいが仕切ってくれるだろう。しかし、つれあいが先に逝ったあとだと、だれにゆだねるべきか。つれあいの娘たちだろうか。養子縁組はしていない。それとも遠隔地に住む弟か。これは何年後かということも、考慮すべき要因ではあるが。私が100歳まで生きたら、弟でも生き残っているかわからない。
私の場合、もう一つ問題がある。死後、どこに葬られることになるか、だ。つれあいの場合、お墓は東京のお寺に用意されている。しかし、私はカトリックなので、その墓には入らない。といって実家の墓もお寺、母はプロテスタントの信者で、教会の共同墓地にはいっている。どうすべきか、もう考えておくべき時なのだ。

「美人薄命」とは言えない年齢になったけれど、年齢が死の順番を決めるものでもない。つれあいより、病気の数は少ないけれど、ある日突然という可能性はある。外出の機会、つまりは運転の機会も多いし、事故に遭う可能性もあるのだ。

書くべきは私の方かと思いながら、エンディング・ノートは積み重ねた本の下敷きになっている。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。