長寿の地フンザ

先日から、パキスタン北部のギルギットやフンザというところが、紛争地となり、77名の日本人観光客が身動きできなくなった。幸い、日本政府の働きかけで、ギルギットから軍用機でパキスタンの首都イスラマバードへと移動し、昨日、日本へ帰国されたようである。

そんなニュースを見て、私もフンザだったら行ったことがある、と言うと、つれあいは、「あんたは本当にいろんな所へ出かけたものだね」と感心してくれた。と思ったら、呆れていたのだそうだ。

何年前になるのか、さだかな記憶はない。まだ独身時代に、東京で知り合ったパキスタン外交官が本国へ戻ったので、訪問したのである。当時、母も健在で、私の海外旅行には必ず同行していた。母を伴い、フランスとパキスタンへの旅行をしたのだ。

パキスタンは、個人旅行にはとてもむずかしいところだった。友人へは、東京でもらっていた番号にパリから連絡したが、それは本人のものではなく、親戚のものだった。もうパキスタン航空のチケットも手配済みなので、連絡がとれようととれまいと、イスラマバードに降り、一番いいホテルへとタクシーではいった。
幸いというのか、彼のカンがいいのか、ホテルに彼とその妻、そして3歳の息子が待っていた。"Welcom to Pakistan"と3歳の子が挨拶してくれる。

ホテルを予約していたわけでもなく、彼らにつれられて行ったのは、公務員の宿泊施設なのだろうか。彼らも帰国して間がなく、住宅の手配ができていなかったので、公務員用の施設にはいっていた。私たちにも1部屋が提供された。

彼の奥さんの手助けで、旅行社で手配してもらい、母とラホールへと2泊くらいで出かけ、あとは、イスラマバード見物くらいだった。母には、そこで先に日本へ帰ってもらった。私は一人残って、フンザへ出かけた次第である。モヘンジョダロとフンザの選択肢があったのだが、モヘンジョダロはとても暑いということで、フンザを選んだ。

旅行社で、車1台、運転手、ガイド、いづれも男性、を依頼し、私一人が旅行者として出発した。どういうルートでどのくらい時間がかかったか、もう忘れてしまったが、トイレがないことには困った。昼ごはんを食べるレストランにはあるだろうと思っていたのだが、ガイドに聞いてもないという。
外で適当に、と言われても、花も恥じらう独身女性、そんなに簡単に外でできるものではない。でもやむなくやった。

そしてフンザに到着したが、何もないところだった。現在住んでいる村にある万座温泉と高度がほぼ一緒らしい。峠を一つ越えると、中国だとか。ヒマラヤ山脈のなかにある。見渡す限り、高い山が連なっている。ガイドに山の名前を聞くと、教えても仕方ないと思われたのか、本当に名前がないのか、あるいは彼が知らないだけなのか、山としか言わない。4000メートル級の山はざらなので、一つ一つに名前がないというのだ。

フンザに2泊か3泊かしたのだが、何もすることがなかった。ニュースでみていると、花がきれいで人気があるというが、私が行った季節がいつだったのか、花はなかった。日中は村落の中を歩き回り、戸外で行われている小学校の授業風景をじっとみているくらいだった。
夜は寒く、お湯は出ず、布団は中国製で、十分な暖かさはなかった。ガイド、運転手とともに、サロンのような部屋で、テレビで放送されるインド映画を毎晩みた。筋書きがシンプルなので、結末を予想して言うと、ガイドが見たことがあるのか?とびっくりしていた。

何を見た、何をしたという思いでもないが、フンザに行ったことは、強く印象に残っている。中国との距離の近さ、次回は中国から峠を越えてくるわね、と宿の主人に言ったものだ。
帰りはきっとギルギットからだっただろう。一人、飛行機に乗せられて、イスラマバードへと帰った。別れ際に10ドルずつ、チップを払った。十分なのか、不十分なのかはわからないが、彼らはとても喜んでくれていた。

イスラマバードの空港から、宿舎に戻るときの苦労もまた記憶にしっかり残っている。なぜかタクシーが使えず、何をつかったのやら、無事に帰れたのが不思議である。

そんな苦労話をつれあいに話すと、「よくぞご無事で帰ったものだね」と言ってくれる。当時の情勢がどうだったか、今のような不安定な状態ではなかったのだろう。
パキスタンで買った衣装、アップリケの布(これはカラチで別の時に買ったものだ)、ウサギの毛皮の帽子など、まだ残っているし、使っている。

それらを見るたびに、フンザの夜を思い出す。寒くて凍えた夜だ。もう一度行ってみたいと思うのはなぜだろう。つれあいは、私の話しを聞いただけで、自分はごめんだねと言っているが。

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