少子化対策

数日前、フランスのヤフーをみていたら、2011年1月1日付のフランスの人口と、2010年度の人口動向が載っていた。
フランスの人口は、海外県・海外領土も含め、6580万人となっている。1980年代だったか、5500万人の消費者という出版物があったが、そのころはフランスの人口は5500万人だったのだろう。1000万人が増えていることになる。

そのほかの数字では、出生数が82万8000人、死者数が54万5000人、ということは、出生のほうが28万3000人も多いということになり、その分、人口増となっている。
出生率は2,01、人口再生に必要な2を超えている。

フランスも以前は少子化に悩んでいたはずなのに、この出生率の高さはどうしたものだろう。日本もなんだかんだという前にフランスに学んではどうなのだろうか。

フランスの情報に直接触れなくなって久しいので、すべてが正しいとは言えないことを前提として、フランスの出産に対する手厚い保護をあげたい。
(休暇)出産休暇、産後休暇、育児休暇、などがあり、働いている女性は、有給休暇も合わせたり、社会保険からの給付が受けられる休暇などをあわせて、相当長い休暇をとり、体を休めたり、保育にあてたりすることができる。父親も14日の出産休暇がとれる。

(費用)出産は健康保険から払い戻され、基本的に無料である。
(保育園)1時期、フランスでも待機児童の話題があったが、このごろはそれを聞かない。企業内保育所の設備もずいぶん整ってきているようだ。

(女性への保護)労働法では、妊娠や出産を理由として解雇をしたり、配置転換などは禁じられている。出産後も元のポストが確保されているので、出産することもリスクとはならない。

日本の友人や知人の家庭をみてみると、生活レベルや教育程度の高い家庭は、少子である。一人っ子やせいぜい2人までだ。

ところが、フランスの知人をみていると、ブルジョワ家庭は3人以上、4人や5人という家庭もめずらしくない。この違いはなんでだろう。通いのお手伝いさんやベビーシッターを雇うことが簡単、ということもあるだろう。

前回パリへ行ったとき、6歳、4歳の女の子、4か月の男の子をもつカップルの家庭を訪問した。夕食を外でとろうと誘われていた。上の娘たちは、30分ほど私と遊ぶと満足したようだ。大学生のベビーシッターがくると、そちらに関心をうつしている。4か月の男の子は、大学生がだいて哺乳瓶をくわえさせたら、泣きやんでいる。さあ、今よと大人はレストランへと出かけた。

留守中、時間になれば娘たちはベッドにはいる。赤ん坊はミルクをのめば、やはりベッドに寝かされる。大学生は両親が帰るまで、テレビをみたり、読書をしてまっているのだという。

たまのことよ、と若い両親は言うが、この二人、息子が生まれる前、娘たちを親に預け、3週間の海外旅行もしている。こんなことが特別でもないのだ。

フランスの出生率のアップ、それにはアフリカ系、アラブ系といった、子供数の多さを誇る移民あるいは帰化した人々の存在もあることを付け加えておく必要もあるけれど。

宅配便

日本における究極の便利、それは宅配便だ。これはいつから始まったのだろう。ずいぶん昔に関西の友人宅を訪問したとき、初めて耳にした。彼女の実家が杉並区にあり、芦屋から帰る時、荷物を送るのに、自宅まで取りに来てくれ、配達してくれるサービスがあるのよ、と聞いて、びっくりしたのが初めてだったと思う。

この地に引っ越してきたとき、宅配のサービスがあるかどうか、とても気になった。山の中、住んでいる人が少ない、こんなところに配達してくれるのだろうか、してくれても週に1回くらいかしら、と心配していたのが嘘みたいに、今では時間の指定もでき、留守の時には再配達も可能だ。

こんなサービス、フランスにはない。友人のアリスが夫とともに日本に来た時、東京滞在を終えて、広島や京都を訪れ、関空から帰国するということだった。「じゃあ大きなvalise(スーツケース)は空港に送って、手荷物程度で動いたら?」とアドヴァイスした。何の知識もない二人に、ホテルのフロントに相談するように言う。1)関空に荷物を送りたいこと、2)書類を渡されるから、何日の何便に乗ることなども記載すること、3)空港では少し早目にいって、荷物を受け取り、それからチェックインをすること、など簡単に説明した。

理解したのか、しなかったのか、けげんな表情をみせているので、リスクをきらってやらなかったかも、と思っていた。ところが、次にフランスで会った時、「おかげで、フリーハンドで旅行ができた」、「あんな便利なシステムがあるなんて!!!」と大感謝されたのだ。

そうしてみると、フランス人は荷物を送るとき、どうしているのだろう。ほとんどがポストを利用しているようだ。大きな荷物の場合、受付の場所が異なるが、やはりポストの一部で取り扱っている。自宅までとりにきてくれることはないのではないかと思う。

パリや国内の移動でも、みんな大きな荷物を持っている。アフリカほどではないけれど、TGVにも大きなスーツケースを持ち込む人は多い。

郵便局のサービスも拡大したが、宅配便は土日、祝祭日も受け付けており、配達も同様だ。こんな便利なことはない。しかし、いつもこんな便利さを享受していいものか、うしろめたい気持がしてならない。

今日は電話で注文した化粧品のサンプルが届いた。送料無料である。

日曜日は休みましょう

外国人、私の場合、フランス人の言うことだが、日本のサービス業で、コンビニと宅急便は信じられないほど便利なものだという。私もそう思う。

まずコンビニについて考えよう。私はあまり利用しないのだが、24時間あいていて、大体のものがそろうのは実にすばらしい。フランス人の友人が山の中の我が家を訪ねてきた。夜、薬局はあいているだろうか、と言う。薬局自体がないのよ、何がほしいのか、急病なのかと心配すると、生理用品がほしいという。それならば、と送りがてら、駅の近くのコンビニへ案内した。

24時間営業のコンビニではないが、友人にしてみれば、夜遅くの時間帯にもかかわらず、あいている店があるというのは、驚きだったようだ。襲われないの?と聞く人もいる。以前には自動販売機がいたるところにあり、正常に稼働しているのにすら驚いていたのだ。フランスでも地下鉄のホームに新聞やスナック菓子などの自動販売機が置かれるようになったが、街角にあるなんて、どうぞ襲ってください、毀してくださいというようなものらしい。

フランスで不便なこと、それは日曜日にお店が開いていないことである。プランタンやギャルリー・ラファイエットなどのデパートも閉まっている。旅行者にとって、買い物を禁じられているのと同じだ。

キリスト教では日曜日は安息日である。日曜日の労働は長く禁止されていた。労働者にとって、犯すべからざる権利の休養日である。日曜日にお店をあけるには、県知事の許可が必要であった。クリスマスのころなどには、認められるが、いつもいつもではない。それに日曜日に働かせると、割増の給与を払わなければならず、経営者にとって、利益と負担を天秤にかけ、強いて営業許可を求めなかった。

しかし、時代は少しずつ変化している。たとえば郊外の大ショッピングセンターなどでは、いケアなどの外国資本の大型店、あるいはスーパーやハイパーの食料品の店、などは労働組合との協議をへて、以前から日曜オープンしている。

フランスに住んでいたとき、不便でしかたなかった。フランス人にそれを言うと、別に不便ではないという。日曜日はお店で買い物しなきゃきいいのだから、というのだ。でも、週日働いているとき、週末しかショッピングできないでしょ、というと、土曜日にすればいいだろう、という返事。土曜日に用事でできなかったら?次の土曜日をまてばいいだろう、と話がかみあわない。

つまりフランス人は消費者の便利よりも、働く人の権利のほうが尊重されているのだ。長く住んでいるうちに、日曜日は閉まっているというのが、インプットされて、不便でもなくなったが。お店による定休日の違いを考えなくてすむのは便利でもある。
(フランスでは2009年8月のマイエ法で、日曜営業の可能性は増えたが、営業している店が大きく増えたわけではないそうだ)
そうしてみると日本では、年中無休、24時間営業、あるいはデパートなども営業時間の延長、すべてにお客様のニーズを先取り、あるいは大切にしている。本当に必要なことなのだろうか。そこまで便利である必要があるのだろうか。

コンビニの24時間営業のためには、商品の補充などで、配達も日に数回行われるという。そのことは今のエコを問題にするとき、妥当なことなのだろうか。
そんなことより、日本人のこの便利になれた常識をかえていきたい。と利用できない不便なところに住んでいるひがみで願っている。

寄付という行為(3)

伊達直人さんのように、直接、養護施設に現物を届ける、これは施設のほしいものと一致したとき、中間経費が不要で、効率のいい方法である。

私が寄付をしようとしたとき、ためらう理由の一つが、中間経費でどれだけ寄付した金額の中から使われるかということが不明なところにある。

どんな慈善団体でも、それが団体として機能するとき、人間や機材を必要とするし、そのために経費がかかるというのは理解できる。しかし、そのために1万円寄付したものが、2000円くらいしか、寄付したいと思ったところに届かないのでは、あまりうれしくない。

だから、たとえば大水害などの災害で、寄付を募ったとき、つい赤十字ではなく、県や市町村の窓口へ送金してしまう。赤十字が悪いのではないが、つい広尾の大きな日赤本社をみると、経費がかかってそうだなと思ってしまうのだ。

けちくさい考えだ。これもアフリカで、あまりの中間搾取をみてきたことによるのかもしれない。
そういう意味では、曽野綾子氏がなさっている宗教者を通じて援助をするという活動は、経費もかけず(彼女のポケットマネーでなさっているということだ)、またどう使われているかという検証も、自費で現地へいらしているということだから、とても透明である。

私の寄付するお金をねん出する方法は、到来物があった時、想定金額を貯金箱にいれる。それが寄付をしようと思う時の基金となる。その時の経済状態によって、想定金額は偏見に基づき、高くなったり、安くなったりだ。あまり到来物というのはないのだが。

寄付という行為(2)

今日の昼間のテレビで、児童養護施設への寄付について解説していた。施設として、寄付をしてもらう前に電話などで、何を必要としているかを聞いてほしい、ということだった。

施設では、必要最低限のものは国家や地方公共団体からのお金4万7000円いくらの支給で賄っているということだ。それでは足りない分を寄付でという。ふつうの家庭で経験することを味あわせてやりたい、そのためにこんなものがほしいという要望があった。

そのなかにディズニーランドにつれていってやりたい、という希望があり、これは娯楽にあたるので、公的なお金では賄いきれないという。これを聞いて、番組のコメンテーターたちは、口ぐちに、情操教育の一端だから、それくらい認めてやりたいですね、などと、言っていた。

ちょっと待ってほしい。私は高額な税金を払っているわけではないが、まじめな納税者という自信はある。小額納税者のくせにと言われれば、引き下がらざるを得ないが、収めた税金の中から、ディズニーランドへ遊びにいく費用を払われたのでは納得できない。

ディズニーランドにかかる費用がいくらか、ご存じだろうか。私はこの10年、足を運んでいないので、現在のパスポート(1日あそべる)がいくらするか知らないが、相当の金額であることは承知している。

ふつうの家庭のなかで、ディズニーランドに行って遊べる家庭というのはそう多くないと思う。
だからそういう情操や娯楽をそんなものに使ってくださいと言って寄付してくださる人がいればいいのだけれど。

でも寄付する人たちは、もしかしたら、食べるものや着るものを倹約したうえでのことかもしれない。

このごろの報道をみて、日本の福祉施設はやっぱり恵まれている、と思ってしまったのは、アフリカ経験者の嫌味だろうか。

寄付という行為

タイガーマスク、伊達直人、私はしらない漫画だったが、今、現象となって、メディアで扱われている。

それはランドセルをはじめとして、学用品、食料品、現金、そして金の延べ棒まで寄付する人がでてきた。

ほとんどが匿名での寄付である。匿名だが、象徴的に伊達直人を使っているのだそうだ。

私も寄付をいくつかする。まず、フランスで2か所、寄付している。これはフランスでお世話になる家の主が関係している機関である。この知人は50位の組織に寄付をしている。私は、滞在の最後に、彼が直接活動している「貧者の兄弟たち」というカトリックの組織、そしてMEDILORというロレーヌ地方の医者を中心とした「国境なき医師団」と同じ活動をしている組織に対してである。

50ユーロずつ、計100ユーロを知人にゆだねる。知人は彼の名前で寄付をする。そうすれば、彼が税の控除を受けられるのだ。私にしてみれば、お金が渡ればいいのだから、彼の名前であっても別に差し支えはない。

日本では「ふるさと納税」が話題になったとき、定額給付金をそれにあてた。このときは控除の対象になるというので、書類が送ってきて、なんと面倒なと思ったが、税金の申告をするとき、とても役にたった。

日本で寄付が匿名であったり、あまり盛んでないのは、この税金の控除がされないためだという。そういえば、大災害時、郵便口座が設定されるような場合は、その寄付は控除の対象になるようだが、常時可能な「あしなが育英会」などは、寄付をしても控除は受けられない。

大学進学の時、私は当時の育英会から特別奨学金の貸与をうけた。特別というのは、高校3年で貸与が約束され、一般奨学金より、金額も高かった。返済も特典があって、一般奨学金の金額を返却すれば、残りは免除されるのだった。

教育を受けたいのにお金がなくて受けられない、そんな不条理はないと思っている。実力がないなら、それは仕方ないが、学力があるのにお金がなくて、という理由は許せない。

だから「あしなが育英会」にはときどき寄付をする。きちんと登録して、定額の寄付ができないのが、年金生活者のつらいところだ。それに寄付をしたい対象の多いこと、アフリカの子供たち、世界の各地で発生する自然災害、日本でも災害は頻発するし、福祉の組織もある。
つれあいは、乏しい自分の財布にも寄付を!!と言っている。

怠惰な日常

今朝の起床時間は8時半になろうとしていた。2日続けて6時起床という非日常に疲れ果て、今朝はゆっくりと思っていたら、油断がすぎた。

昨日の6時起きは、つれあいが運転免許の更新期にあたり、高齢者なので講習を受けるのに、8時に始まるからだ。6時に起き、7時半につれあいが出かけると、朝食の片付け、簡単な掃除、一通りのことをすませてもまだ9時台だった。

つれあいが嫌う長電話(電話相手が女性だと必ず長くなる)をかける余裕も、ピアノを弾く時間もとれて、まだ10時すぎだった。

早起きは3文の得、ではあるが、なにもないのに6時に起きたりすると、1日の長いこと。昨日も結局昼までにやるべきことをやり終え、午後と夜は暇を持て余した。ふだんできないことをやればいいが、朝起きで体力を消耗しているし、睡眠不足で、気力はないし、頭痛すらするのである。

と、今日は怠惰な日常に戻った。ゆっくり朝食、雪が降り始めていたので、あわてて車で新聞をとりにいく。昨日がんばって掃除をしているので、今日は掃除はしない。新聞をゆっくり読むと、もうお昼だ。簡単な昼ごはん。

今日は温泉休養もプラスする。人の少ない時間帯を狙っていけば、ほとんど独占状態だ。
怠惰のなかにはノーメイクも加わる。今日は出かけない、来客の予定がない(ほとんどない)、お化粧するのもめんどうだ、と今年になってお化粧した日は2,3日だけだ。

こんなに精神的に緊張感のない生活、はたして寿命は延びるのか、延びてもボケていくのだろうか。不安はあるが、このまま続けていくのだろう。

癌の話

昨日から友人のブログに癌の話が載っている。友人も癌で、治療を受けているという。寛解の状態にあるのだろうか。とても元気で、ばりばり仕事をしている。癌であるなんて、信じられないくらいだ。

彼は体験に基づいて、対応策を書いてくれている。とても参考になる。

九州に住む義兄が食道がんという知らせを今朝もらった。来週、詳しい検査をするというが、癌であることは疑いの余地がなく、それもステージ4というのだ。大変ショックをうけた。というのも、昨年11月末、九州へ行き、家族の会合をもったときには、なんの予兆もなかったからだ。

B級グルメを食べようと、焼き鳥やラーメンなど、食べ歩いたし、そのとき、必ずお酒をつけるのは義兄と長兄だった。腰痛があるとはきいていたが、そのほかの障りはなにもなさそうだった。それが2カ月後に、ステージ4の癌と診断されるなんて。

癌とはそんなに突然でてくるものだろうか。咳ばかりしているつれあいも、呼吸器系に癌があるのではないか、と心配になる。私自身もなにかないか、おっぱいをさわってみる。

もう亡くなられて数年たつが、女性の友人で、乳がんとわかった時には、もう手術もできない状態になっていらした方がいる。どうしてわからなかったの?と聞いても仕方ない。わからなかったのだそうだ。

義兄もきっとそんなことだったのだろう。来週の検査で、いい治療法がでますように。祈るだけである。

日常と非日常

今日は久しぶりに仕事で外出した。仕事があるのは、昨年の12月20日が最後だったから、年末年始の休みも含め、25日ぶりになる。年末には新年を迎える準備で忙しかったり、年始には娘たちの来訪があったものの、ほとんど家の中ですごした。

私の日常を書けば、顰蹙をかうのは間違いないだろう。まず、起床は8時だ。寒冷地で、早起きをすると寒すぎることがある。新聞を2キロの距離にある集落まで取りに行く。去年まで、天気がよければ歩いていたが、今年は車ばかり使っている。

昼ごはんを作って食べ、後片付けをし、3時にお茶をのみ、6時に夕食、後片付け、テレビをみて、入浴、寝室には10時ごろはいって、読書をし、12時近くに就寝だ。たまに午後、近所の日帰り温泉に行く。

今日は違った。まず、2時間かけて前橋の仕事場に10時までに行くため、7時半すぎには家を出なければならない。6時起きとなった。まだ真っ暗ななか起きる。室温は4度だ。ベランダにでると、最低気温はマイナス12度になっている。道路には残った雪がかちんかちんに凍っている。

日頃から2時間早い起床だが、マイナス12度の空気に触れれば、すぐに眠気はとれる。ベランダに出ると、いつもなら待っていたように集まってくる野鳥たちの姿もない。

今日の仕事はしんどかった。人と話すのが仕事だが、話すことも拒否されてしまった。それはそれとして、どうにか仕事を終えたものの、達成感はなく、疲れだけが残った。

仕事をときたますることは、非日常を体験できて、楽しみなのだが、仕事というだけあって、楽はできない。肉体疲労ではないが、精神的にダメージもうける。

非日常を体験するのは、日常の生活の居心地のよさを再認識する機会でもある。


ランドセル

この数日、漫画タイガーマスクの主役伊達直人と称する人から、児童養護施設へ、ランドセルの寄付が続いている。今日はとうとうすべての都道府県で寄付が行われたとのことだ。

ランドセルが4万円もするのをはじめて知った。これでは養護施設ならずとも買えない人もいるだろう。そもそもランドセルというのは、必要なのだろうか。1年生になるときの必需品とされているが、これは6-7歳の子供にとっていいものだろうか。風袋が重すぎる印象がある。

私はランドセルを使ったことがない。私が小学校1年になるとき、ランドセルは存在していたけれど、私には買ってもらえなかった。そのお金がなかったようだ。入学式、通学時、私に与えられたのは赤いビロードでつくった下げ袋だった。

その当時はベルベットという言葉は知らず、ビロードと呼んでいた。作ってくれたのは母なのか、洋裁を仕事としていた叔母なのかしらないが、それはランドセルのかわりだった。3歳上の姉は何をもっていたのか、覚えていない。

まだ国民全体が貧しい時代だから、新入生全員がランドセルを持っていたとは思えないが、一緒に通学している友達はランドセルだった。母に私もランドセルがほしいといったけれど、買ってはもらえなかった。

だからランドセルが重いのか、使い勝手がいいのか、わからない。しかし、こんなに普及していることをみれば、きっといいのだろう。

フランスではランドセルはカルターブルという。日本と違い、横長で、やはり背中にしょうようになっている。革製ではなく、化学繊維でできているが、それなりに重い。
画一化をきらうフランスなのに、学校で使うものは細かい指定があり、それをそろえなければならない。

新学期(9月)には、学校指定の学用品をそろえるのが大変だ。費用もかかる。その費用がだせない家庭については、補助がある。

私は新入生すべてが必ずランドセルを持つ必要はないと考えるが、この美談が来年も、再来年も続くことを期待している。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。