幸わせ

今年の年賀状には、スズランの花の写真を使った。これは「おめでとう」の言葉を使いたくなかったことと、年賀状を送る相手の幸せを祈る気持ちからだった。
スズランの花ことばは「幸を贈る」あるいは「幸を運ぶ」である。フランスでは5月1日が、スズランの日で、この日に愛する人にスズランを贈る習慣がある。

1月1日の年賀状に5月の花を使うのも、季節はずれとは思ったが、幸ということばに密接なのはスズランをおいてない。本来の意図としては、「幸」という字を筆で書き、それに相手にふさわしい文言を少し書きくわえるつもりだった。ところが、いろいろあって、とても筆をとる余裕がなく、その意図は消えてしまった。

考えたのだが、幸多かれ、あるいはご多幸を祈りますとは書いても、相手にとっての幸とはなんだろう、わかりはしない。
まず、自分にとっての幸はなんなのか、それを考えてみた。そして、今がとても幸せであることに気付いたのだ。
年齢相応の健康、つれあいは昨年、入院するといったこともあったし、まだ自宅で治療を続けてはいるが、普通の生活は可能である。質素ながら、毎食をおいしくいただいている。
その日暮らしという経済状態でもない。二人で年金を出し合って、贅沢はできないが、日々のことに欠くこともない。

去年の年末ジャンボ宝くじは買わなかったけれど、たとえばこれで1億円があたれば幸せになれるだろうか。1億円あったらどうしよう。この寒い時期を避寒地ですごせるよう、暖かい土地、あるいは東京に住居を購入するか。東京であれば、東京なりの寒さがあって、暖かいとは言えないし、空気が悪いから、せっかく気管支系の病気がなおったのに、またかかる可能性もある。それならハワイあたりに移住するかと思っても、そう気持ちは動かない。フランス語圏のタヒチにするか、と思っても、海ばかり見ていてもね、と乗り気になれない。

ファーストクラスで年に2-3回の旅行をすれば幸せか、やってみたいけれど、幸せという語感とはぴったりこない。ゴルフを毎日やる、それも体力が続かないし、もし週に1回くらいなら、このへんは低価格でできるから、今の経済状態でも、やろうと思えば不可能ではない。

いずれにせよ、年齢が進むと幸せの規模は小さくなることに気付いた。今の生活をできるだけ続けられること、それが最大の幸せのようだ。

フランスのみならず、外国からのグリーティングカードには、繁栄とか仕事の成功といった言葉が入っていることが多い。仕事の成功は、仕事をしていてのこと、完全に仕事を辞めたわけでもないが、大成功をとげられるような仕事の種類でもない。

だから幸せを求められるのは、現役や若い人たちの特権かもしれない。愛する人と巡り合いたいとか、子どもがほしい、そういったことはまさに幸せに結びつくことだ。
小学生の子がいる。ヴァイオリンを学び、将来はプロとなりたいらしい。それだけの才能があるのか、専門家でない私にはわからないが、それが彼女の幸せなのなら、応援したいと思っている。若い人たちの幸せへのお手伝い、そんなことが私にとってのあらたな幸せとなるのかもしれない。

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