おせち料理昨今

3日ともなれば、もうあまりおせち料理も残っていない。今日の夕食が残りを一掃する最後の食事になりそうだ。
今年も、おせち料理は作らないといいながら、数品目は作った。私の生まれ故郷の料理であるがめ煮、そのほかは数の子、栗きんとん、紅白なます、かまぼこ、お雑煮、程度である。

毎年、気力が衰えて、おせち料理を作る気がしない。つれあいと二人きりだということもある。それにおせち料理というのが、あまりぴんとこないのだ。つれあいは関東の出身なので、どうもおせちの内容が違うようだが、黙って私のつくるものを食べている。なにか注文をつけると、やーめた!と言われるのがこわいらしい。

そもそも、小さい時、貧しい時代だったので、おせち料理といって、このごろのように派手に宣伝されるようなものはなかった。がめ煮と黒豆、お雑煮くらいしか記憶にない。栗きんとんはなかった。もしあっても、子どもの口に入るほどの分量は作っていなかったと思う。田作り、昆布巻き、たたきごぼう、酢ばす、などもあったかどうか。

いづれにせよ、当時のおせちは、まとめて作って、3が日、主婦があまり台所に立たないでいいように、という意味、あるいは、日頃の倹約生活をちょっと逸脱して、ちょっとばかしぜいたく品をいれて、新年を寿ぐ、そんな程度の料理だったように思っている。

このごろのおせちとして、雑誌に紹介されたり、デパート名店街などでみかけるのは、超豪華、そして和洋中と、いろんなタイプがあるようだ。そうしてみると、伝統というより、お正月に名をかりて、出来合いの一見豪華な詰め合わせを食べるというように変化している。

おせちのなかに、伝統として意味があるもの、たとえば、エビは腰が曲がるほどに働けるように、とか、数の子は子孫の数が増える、黒豆はまめまめしくすごす、といった意味は、私はすべて否定したくなる。腰が曲がるほどに働きたいとは思わないし、数の子は好きだけれど、子どもはもたなかった。まめまめしくするのもいやだ、と農耕社会のよき伝統を否定し、怠惰な生活を送ることを願っている。

それでもがめ煮を作るのは、根野菜がたくさんはいって、便秘予防になるだろうと思うし、きんとんはつれあいの要望、他はほとんど手がかからないものばかりだ。
つれあいの実家の味を知らないのと同様、私の味は別に次代に伝わりもしない。

来年こそは、高くても、どこかのおせちを注文しましょうか、と言いながら、やっぱりそれをしないのはなぜだろう。見た目もきれいで、品目も多いし、盛り付けたまま届けば、簡単きわまりない。ただ、きっと味が濃いだろうと思うのと、30日くらいに届くという事実がためらわせる。おそらく、早くに作って、冷凍されていたものが、解凍しつつ30日くらいに到着することになるのだろう。いつ、どう作ったのか、わからない。自分で作れば、それがはっきりしている。

多くの家庭で、おせちを外注している、と聞くから、家庭の味というのは、もう伝わっていかないかもしれないし、またおせちはごちそうという意味だけになっていくのかも、と思っている次第である。


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