わが身におきかえて

毎朝7時から午後5時まで、我が家は間歇的な地震におそわれる。それは削石工事の振動なのだ。浅間山のふもとにある別荘地で、江戸時代の噴火のあとの巨大な火山石がごろごろしている。近くには鬼押し出しがあるが、あのような大きな岩石が、点在しているのだ。

その巨大石を、割っている。もう半年以上かかっている。上だけではなく、地下部分もあるから、時間がかかる。これらの石を見るたびに、噴火のものすごさ、エネルギーを感じる。この噴火のとき、集落の人たちは、鎌原観音に逃れたひとだけが助かった。

東日本大震災が発生したとき、富士山や浅間山などの火山が呼応した形で、噴火するかもしれないという話があった。
この数年、台風襲来もなく、リスクといえば、浅間山の噴火くらいである。もし、噴火したなら、どうすべきか、今回の大震災で避難をよぎなくされた被災者のかたたちを見ながら、わが身におきかえて考えた。

噴火の警報がでたら、逃げ出すことになるだろう。どこまで逃げればいいのか。ハザードマップはあるけれど、想定外の規模の場合、自分で決めるべきだ。145号線で長野原あたりまで逃げれば大丈夫だろうか。逃げて、どこに避難することになるのだろう。

もし、住んでいるところが、火砕流や土石流であとかたもなくなった場合、また同じところに住む気持ちになるだろうか。そこまでの愛情を持っているだろうか。10年をかけて丹精した樹木や花々、それをまた一から始める気持ちになるだろうか。

避難についても、自分勝手に動けば、行政からの援助は得られなさそうだ。それかといって、どこかの体育館に大勢で避難しているなかに入れるだろうか。集落の人との付き合いもあまりない。余計者扱いにされるだろう。

さあ、富士山、浅間山、白根、いろんな火山が噴火を同時に始める。そして東京に直下型の大地震が襲った。そうなると、政府が機能していての場合だが、東京だけに注意がむいて、浅間のふもとの山村の住民のことなど、きっと忘れられるだろう。

そんな災害は一度に起きない、とは言えないだろう。災害は複合的に起こりやすい。絶対起きないとは、今回の大震災をみていても言えないはずだ。

今回でも、長野県の栄村の地震については、ほとんど報道されない。報道されないというのは、いわば関心をもたれていない、援助がされない、ことにも通じているようだ。

まだ想像の世界なのに、だんだん悲観的になってくる。実際の被災者が絶望的にならず、あくまで前向きなのは、わたしたちにとって救いである。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。