自粛は他粛ではない

このごろメディアの論調がかわってきた。節電・節水、節ということばが使われていたのが、週末あたりから、自粛を自粛しよう、みたいな論調だ。

自粛がいきすぎると、経済が停滞、企業が業績悪化、税収が減少、支援ができない、という負のスパイラルになるから、花見も観光旅行もやりましょう、自粛はよくない、といった論調だ。この論理、なにかで聞いたことがある。デフレ・スパイラルとおなじ論理だ。

自粛をうんぬんはテレビのお昼の番組あたりで言われたくない。箱根の泊まり客が例年の2割ほどしかないという。そんなの当たり前だ。小田急のロマンスカーは運休しているらしいし、ガソリンは高くなっている。それに、原発報道をみれば、こんな不安な状態の時、無理して出かける気分になるものだろうか。それを旅館のために、どうしてもでかけよと、テレビのコメンテーターさんたちはおっしゃるのだろうか。

花見もそうだ。これまでのお花見がバブル時代の名残で、ブルーシートを敷き、場所取りをして、飲めや歌えの大騒ぎをしなければ、花見ではないように誤解が生じている。どこかの公園では、自粛してくださいという、役所の掲示があるそうだ。いい機会ではないだろうか。ライトアップの費用や、ごみの後片付けの費用もなくてすむ。これらの支出もおおきかったはずだ。

花見をしていけないわけではない。千鳥淵のように、歩いて花を見ていけばいい。青山墓地の桜のトンネルもいい。桜の花の下で宴会をするのが花見という認識をあらためればいいのだ。

自粛は自分の意思でするもの、強要されるものでもなければ、人から非難されるものでもないはずだ。こんな未曾有の大災害の、まだなにも問題解決がされていないのに、派手に遊ぼうという気分になれるものではない。
それに義捐金の金額をみてわかるだろう。孫さんのように100億円を寄付できはしないが、精一杯、寄付するお金をねん出した。

一般人の場合、そして収入が決まっていて、そう多額ではない場合、寄付をしようと思えば、余分なところを倹約する。それはだいたい遊興費や外食費に決まっている。外食したり、バーで一杯やったり、どこかへ出かけてもちっとも財布に響かない、という人はそれをすればいいし、きっとしているはずだ。

もちろん、経済を振興させて、その結果を支援にあてることもできる。しかし、それでは間接的すぎるのだ。赤十字への寄付だけでも、被災者の手になかなか届かないというので、もどかしい思いがしているのに、まるで、買い物や外出して余分にお金を使うことで、支援になる、なんて、遠い方法はとれない。

各人が各様に、自分の納得のできる形で支援をしているのだから、コメンテーターのしたり顔でのアドヴァイスは余計なお世話ですよ、と思っている。

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