うちわと扇子

節電の夏、クーラーをあまり使わないようにとのキャンペーンがさかんに行われている。住んでいるところが、高度1000メーターの高地なので、夏はわりと涼しくすごせる。
ハンドバッグの中には、1本の扇子をいれ、家の中には、いたるところにうちわがおいてある。

小さいときのことをこの頃よく思い出すのだが、扇風機もなかった時代である。なんで涼をとっていたか、それはうちわである。アッパッパーという露出度の高い、隙間風のはいりやすい木綿の服をきて、隙間からうちわで風を送り込む、これが涼のとりかただった。

だれの文学作品だったか、思い出さないが、お客様に対して、「どうぞうちわなどお使いいただいて」とうちわを勧めるシーンが印象に残っている。わが家にも普段用ではない、特別のお客様用のうちわがあった。宣伝でもらったような安っぽいものではなく、図柄も日本風で、和紙も上等のものが使ってあった。それを出すのは、特別のお客様で、ご近所や近い親戚が訪れても出されなかった。最高級のお客様には、子どもが控えてうちわで風を送るという役目をひきうけていた。

時たま、お客様の中には、特にご婦人の場合だが、手持ちの扇子を使う人がいて、その扇子からこぼれてくる香りのいいこと、たしなみのほどがうかがわれて、お茶を運ぶ時、どきどきしたものである。
社会人になって、母から白檀の扇子をプレゼントされた。とてもうれしかったことを覚えている。香りはいいのだが、もったいなくて、普段使いはできず、大切にしまいこんでいた。
夏場になると、デパートの扇子売り場をのぞいてみたりしたのも、もう30年も前のころだ。

風を送る道具として、扇子も団扇もつかわれるけれど、効率は団扇のほうがいいのだが、扇子となると、ちょっと高級感がでる。とくに外で使用するとなると、団扇だとくだけすぎた感があるのに、扇子だと、許されるような気になるのはどうしてだろう。

うちわや扇子を使うのも習慣だろう。南仏やアフリカにも持参して、私は使うことがあったけれど、現地の人たちはその効用を認めても、さして使うことはなかったようだ。うらやましがられて、けっこう大勢の人にプレゼントしたが、実用に供したような印象がない。
プロヴァンスの庭で、無風をかこつちながらも、団扇を使うというシーンは思い出せない。アフリカでも同様だ。

うちわの風は気持ちがいい。わが家には高級品がない。選挙広報の団扇、大型家電店の宣伝用、ビジネスホテルでもらったもの、などばかりだ。
このごろでは、団扇の骨部分も竹ではなく、プラスティックである。これは風情がない。

すぐれものは超軽量の小さなうちわで、軽くてとてもつかいやすい。枕元において、寝る前の涼をとるために使っている。

ものもらい、目ばちこ

先週、つれあいが両瞼の手術を受けて、赤い目をしている。痛くはないけれど、かゆいような、うっとうしいと言い立てている。まるで一重まぶたを二重にするための美容整形をうけたみたいだ。私はもともと二重だから、その美容整形手術は必要ないけれど、瞼や目の下のたるみ、あるいは脂肪を吸引するための手術をうけるのも、若返りの一つかな?などと思っていたが、つれあいの様子をみていると、やっぱりやめておいた方がよさそうだ。

目がおかしくなると、「悪いものをみたせいだ」と言うことがある。つれあいにもよほど長い間悪いものを見続けたせいよ、と言うと、つまりは君の顔かね、と言い返されることはない。つれあいは、そんな意地悪を言う人ではないからだ。
もし、悪いものをみたせいとなれば、つれあいの「うっとうしい」を聞きすぎたせいだろうか、私も昨日から目がおかしくなった。

今朝になって、左目からやにがでて、目があかない。久しぶりのことだ。ハードに働いていた時、翻訳などの仕事を集中してしたときなど、最後にはものもらいができたり、涙線に脂肪がたまったりしていた。このごろは、そんなこともなくなっていた。
ものもらい、という表現、もらいたくもないのに、と思う。辞書で調べると、ものもらいは俗称で、麦粒腫というのが正式らしい。

それを目ばちこと言うと教えてくれたのは、関西出身の友人だった。関西でそういうのだろうか。その友人は40歳代で亡くなった。ばちこは、ばっちい(汚い)とかわいらしい表現につかう子とをあわせたものだろうか。

ホウ酸がしみこんだ脱脂綿で目をふき、やたらと目薬をさしている。眼科医にかかることができない。眼科医がいないのだ。

このところの政争ゲームをテレビで見すぎたせいかな?と思っているところである。

借金ゼロで終わりたい

友人に言わせると、高齢者はお金を使わない、それが消費を冷え込ませる、とのことだ。実際そうかもしれないが、収入が年金だけとなると、額も少ないし、ついつい貯金を取り崩しての生活となる。
自宅なら、家賃を払う必要もないし、年金を使いきった生活をすればいいのですよ、と言われるけれど、自宅はいろんな経費もかかる。

今年はボイラーも変えたし、照明器具が耐用年数をこえて、いくつも故障している。今年の予定では、秋口に車を買い替え、2部屋ある和室の畳変え、そして、ペンキの塗り替えがある。ペンキの塗り替えは、足場も組まなければならないし、総費用は100万円を超えそうだ。

これらの出費を賄うのに、年金は普段の生活費でも足りないくらいだから、預金を取り崩すことになるだろう。
この世をさよならするまでに、このような出費がいくらかかるか、わからないのだから、そう普段にお金を使えないのは、自明の理である。

借金がきらい、というよりできない境遇になったからでもあるのだが、国の借金というのが気になってしかたがない。老人から今、生まれたばかりの赤ちゃんにいたるまで、日本国民一人当たり700万円以上の借金をかかえている、と言われると、700万円に責任があるような気になる。

つれあいとよく話す。こんなに言われるくらいなら、いっそ、我々の分を払って、メディアが国の借金を報道するとき、「国民一人当たり700万円の借金、ただし、群馬県在住のYさん夫妻は除く」、と必ず言及してもらおう、と。
といっても、一人700万円とすれば、二人で1400万円、とてもそんなお金を払えるわけはない。

まじめに働き、正直に納税し、年金の中から、ちゃんと国民健康保険と介護保険を払い、後ろ指をさされることのない生活なのに、まだ借金があるといわれる筋合いはない。が、政府にいわせると、国民の生活向上をはかったための借金なのだと、まるでこちらに責任があるような言い分だ。

一挙に700万円を払えないから、仕方なく消費税率アップにも是とせざるを得ない。10%になって、はたして、我々が死ぬまでに、その分を払い終えることができるだろうか。それとも子孫に残していくだろうか。負担してくれる子孫がいないのだが。

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