信仰とは?

先日逮捕された高橋克也は、いまだにオウムの信仰を持ち続けているらしい。麻原彰晃の著作を、逃亡の間も手放せずに、コインロッカーにしまったまま、そこから遠くにはいけなかったとか。

彼にとって、オウムはまだ存在する実体なのだろう。非合法化されても、非道なことを実行して、犯罪者として追われていても、その信仰は揺るがなかったというのだろうか。

私はクリスチャン、カトリックの洗礼もうけている。今日は日曜日、ごミサに与った。神様を信じているか?と問われると、それは「信じている」と答える。それでは、神様とはどんな存在か、とか、キリスト教の教義は?などと問われると、確たる返事ができない。

キリストはマリアから処女懐胎で生まれたというが、それがはたして可能なのだろうか、とか、ご復活の奇跡をどう考えるか、などは、私自身も納得できないでいるのだから、聞かないでほしい。

そしてごミサをさぼったときなど、罪の意識とともに、世界全体で、日曜日にはごミサが行われているわけだが、そのわりに、世界が平安になったと思えないし、まずは、キリスト教は2000年以上の歴史があり、愛の宗教といわれても、歴史は戦争を繰り返してきた。

どの宗教にも、血にぬられた部分はある。新興宗教にその部分が現在の時点でおきたのを否定するのは妥当だろうか。
オウムがしたことを肯定するわけではない。しかし、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、その成立の過程では、もっと陰惨な、血みどろの事件があったに違いない。

私は、いつも守られているという感覚があり、その守ってくれるものがキリスト教でいう神と感じたから、受洗したのだが、教義そのものをまともに学んでいないのだ。時代錯誤もあるように思う異端者でもある。
キリスト教徒がもしこの日本で迫害されたとき、はたして信仰を持ち続けることができるだろうか、とか、踏み絵を強要されたとき、どうするだろう、など、時として眠れない時考えて、また眠れなくなってしまうことがある。

高橋克也が現在、拘束された自分を、罪を犯したからと考えているのか、宗教上の迫害を受けていると考えているのか、知りたい。

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