本当の親はだれ?(3)

「自然の摂理」に任せるという考えは古いのだろうか。昔は子供は「授かりもの」だった。今では「作るもの」になってきている。

子供がほしいという気持ちは理解できる。私もほしい。結婚が遅かったので、年齢的に無理とあきらめた。人為的な方法を考えないでもなかったが、配偶者が反対だった。

養子を迎えることも考えた。家のためではなく、私のために。アフリカですごしたとき、孤児を一人、養子にしたいとも考えた。しかし、やはり配偶者の反対にあった。欧州でなら、肌色の違いも受け入れる許容度があるが、日本では無理だというのだ。私自身も、子供と一緒にうける好奇の目を受け止められるか、自信がなかった。

自分の子供として可愛がりたいという気持ち、エゴではないのか、と思ったのだ。現地にいた日本人のシスターは、私の気持ちのもちようだと言っていた。結局、養子はあきらめた。

不妊は男性、女性を問わずある。子供をほしいという気持ち、それも理解ができるが、それを「自然の摂理」に任せ、つまり自分自身の血をわけた子供をあきらめたら、というのは非人道的な意見だろうか。

科学のあまりの発展に、私はついていけない。日本は代理母を法的に認めていない。フランスもそうだ。でもできる国はある。アメリカやインドなどでは可能である。そうなると、そういう国にいって代理出産をする人もいるだろう。

それだけの出費のできる人、不妊治療自体が健康保険がきかず、高額な出費になるというが、格差が発生する。

大野氏の本では、インドの代理出産について、「高度な(生殖)技術とローテクで低賃金労働の組み合わせ」とある。卵子も精子も国境をこえての提供によるものであれば、その子ははたして日本人といえるのか、という問題もでてくる。

「そんなに赤ちゃんがほしいですか?」やっぱりそう問いたい。
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