孤族という現実

昨日、朝日新聞のトップは孤族という言葉であった。我が家の辞書(広辞苑第4版)には載っていない。造語なのであろう。孤族の前期段階として個族という表現もあった。この個は、個食ということばでもうおなじみだ。

ここ数日、外部からの電話がない。外出時に留守電にしておいても、チカチカ点灯していないのを見るとがっかりする。過疎地のそれも山の中に住んでいると、世の中から忘れ去られた感がある。

私たちも孤族のはしっくれかもしれないわよ、とつれあいに言う。今は二人暮らしだが、そのうち独りになり、周囲に知っている人もいなくなったとき、ここに私がいるということを誰も関心を示さないかもしれない。

今年の11月、京都在住の従姉が亡くなった。戦争未亡人の叔母はいとこをつれて、実家である我が家へ戻ってきた。従姉が高校を卒業し、東京で就職するまで、一緒に暮らしたので、実の姉のような感じがあった。

従姉は結婚し、1児をもうけたが、その後、お金のトラブルなどがあり、我が家(実家)とは縁切り状態になっていた。従姉のつれあいの兄弟とも同じようなものだったろう。

従姉と同居していた叔母が亡くなったとき、連絡があり、住所がわかった。従姉のつれあいもそののち亡くなったという話をきいた。叔母の遺骨を、祖母のそばに分骨して納骨させてほしいという話もあったが、墓を継承した兄は断ったようである。

従姉は一人娘であったし、その息子も一人である。母親の介護のためなのか、理由はわからないが、独身である。これから結婚することもあるだろうが、この従姉の子は、20年後、30年後、この孤族となるのだろうか。

従姉とは姉・妹のような感情がかってはあったはずなのに、その子を甥とは遇しえない。こちらの側にも、孤を招く要素があるのだ、と自覚している。

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