クールビズ実行中ですか?

国会中継をみました。民主党崩壊の始まりを野党の面々が鋭く(?)指摘しています。論戦の中身は、もう不毛なものとして、無視していたのですが、はたと気づきました。閣僚のみなさん、背広にネクタイの完全装備です。

国会の設定温度は何度なのでしょうか。彼らが背広にネクタイをしていても、汗もかいている様子がないというのは、28度ではないでしょう。もし28度なら、とてもあのスタイルではいられないはずです。それとも彼らは暑さに特別強い人たちを選んでいるのでしょうか。

今日の朝日新聞の社説には、節電意識が行きわたったから、原発の再稼働は本当に必要か、という趣旨のことが書いてあった。節電意識は行きわたったとは思うけれど、のど元過ぎれば、の例として、いつまで持続するのかは疑問のような気がする。

私にしても、なるべく使わないものは、コンセントから抜くとか、照明は控えめ、いらない明かりはすぐに消すという風にはしているけれど、つれあいに言わせると、金額面での貢献はないそうだ。わが家は冷房はない。だから夏の暑さにはがまんするしかないけれど、高度1000メートルの山間地にあるからこそ、可能なのだ。

先日から九州、東京と出かけることが続いたけれど、そこでは、ホテルの部屋では、28度なんていう温度では耐えられなかった。22度に設定、それで冷えてから、ようやく25度くらいにあげる。

たとえば、関電の範囲で、高温注意報がでるような日が連続して、もういやーっとばかり、住民たちがいっせいに冷房の設定温度を下げたら、どうなるのだろう。今は80%くらいですんでいても、綱渡りには違いない。

それにしても、あの閣僚のばっちり決めたスタイルをみると、クールビズのお題目はお題目にすぎないのかと、覚めた気分になってしまう。

高速道路運転マナー

海の日3連休の最終日、東京へ出ることになりました。渋滞が予想されるので、午前中、早目に出発しました。渋川伊香保から関越に乗りました。渋滞情報をところどころで聞きますが、関越は順調に流れていますという放送です。

でも3車線、車の数は多いです。普段が少ない時にしか移動しないから、そう思える部分もあります。運転があまり得意ではないので、高速道路では真ん中の車線をキープです。めったに追い越し車線には移りません。

時速100キロプラスマイナス10キロくらいの速度で走ると、だいたい安定しています。たまに、真ん中の車線をのんびり走る車がいたり、バスやトラックといった前方の視覚を遮るものがあるときは、追い越します。もちろん、追い越し車線にうつってです。

追い越しがすめば、また走行車線に戻ります。ところが、追い越し車線をキープし続ける車の多いこと。それらのほとんどの車は、追い越し車線だけを走っていくようです。
ある時、友人が言いました。追い越し車線で数キロ走り続けたら、警察につかまった、と。文句をつけています。

でも追い越し車線は追い越しのためにあるもの。そこを走り続けるという方がおかしいのです。追い越したい車を追い越した時点で、走行車線にうつる、それがマナーであり、規則です。

今回、それ以外に、左側の走行車線を追い越し車線として使用する車の多いことにも気付きました。左の車線がけっこうすいているのです。私も左に移ることを考えないではないのですが、ゆっくり走る車に時折遭遇するので、真ん中の車線でいくのです。左に移る車、ゆっくり走る気なのかな?と思うと、すごいスピードで走り、先が使えると真ん中、あるいは追い越し車線までくいっと移動します。

せこいというのか、いやしい運転です。混んだ道、早く走りたい気持ちもわからないではないのですが、節度と規則を守りましょう。

「いじめている君へ」を読んで

いじめ問題がニュースで扱われている。昨日から朝日新聞では「いじめている君へ」というシリーズが始まった。昨日はボクシングの選手だった人、今日は作家・僧侶の玄侑宗久氏である。

とてもいい文章が書いてある。一面の左側にその欄が設けられているが、すぐに目につくし、読みやすい。しかし考えた。いじめをしているのは、小学校から高校あたりの生徒・学生だろう。そのなかのどれだけが、この文章を読むのだろうと。

親が読んで、いじめをしている子、あるいはいじめられている子に、読みなさいと言うのだろうか。子は素直に読むのだろうか。

なんだか朝日の独りよがりのような気がしてならない。子ども新聞ならともかく、という気がするのだ。
いじめられている子は、どうしてこうなるのか?と原因を知るため、書いてあるものを求めるかもしれないが、いじめサイドは、具体的な行動のみで、理論的なことをさぐったりはしないだろう。

学校で読ませるには、先生たちがはたして朝日を読んでいるのか、気になるところだ。先生たちは忙しくて、意外と新聞を読んでいないような気がする。そしてもし読んでいても地方紙が多い。

マスコミというのは伝達手段として、大変有用なものであるが、目的を特定した場合、役に立たないこともある。
このシリーズがいつまで続き、どんな人が登場してくるのか、そしてその効果のほどは、と期待しているのだが。

故郷は雨の中

10日から5日間、帰省しました。帰省日から1週間前くらいの予報では、10日あたりまで雨だったのですが、その後は曇り程度だったので、安心していたのですが、だんだん、予報が変わってきました。予報ですから、気象条件が変われば、予報も変わってきます。

なるようになれ、とばかりに、傘だけは用意して帰省しました。10日は晴れているような、曇天のような、湿気まんまんの暑い日でした。涼しいところで生活しているので、その暑さのこたえたこと、空港を降りたとたん、踵を返して帰りたいという心境でした。

夜はホテルで、クーラーをつけたり消したり、忙しいこと、忙しいこと。高層階で、窓があかないので、外気はいれられないし、クーラーで温度調節をするしか仕方ないのです。眠ったような、眠れなかったような。

翌11日は、佐賀県へ行きましたが、途中、ワイパーを最速で回転させても間に合わないような雨量です。山間の道なので、普段から雨の多いところらしいのですが、普通はいやなトンネルがほっと息つく間になります。
でも、土砂降りになったり、小降りになったり、いろいろでしたが、小降りの時をねらって行動したので、どうにかすごせました。

12日も豪雨の予報だったのですが、肩透かしのように雨は降らずにすみました。でもそれは例外的で、熊本や大分では豪雨のまま、水害がいろんなところで発生していました。
その風景をみると、常に昭和28年の大水害の思いでがフラッシュバックします。当時の家は、もう残っていませんが、泥だらけになった家の無残なこと、そして、泥やヘドロ、なにか腐ったものの臭い、悪臭もあったことを思い出します。昭和28年は6月末でしたが、7月であれば、もっと暑いので、腐敗も早いのです。

夜中も相当降ったはずなのに、ホテルは気密性が高いので、雨音に気付かず、眠っていました。実家の姉は、雨音がひどく、いつ浸水が始まるかと心配で眠れなかったとか。ホテルのよさはこんなところにあります。

14日、福岡での会合に出席しましたが、電車の駅から会場まで、地下街を通って行けたので、ぬれることもありませんでした。傘もひらかずです。ところが、会場であった仲間たちは、飛行機が遅れたりで、とうとう会場へこれなかった人たちもいました。
その夜も相当降ったようでした。朝6時、時ならぬアナウンスで目が覚めました。駐車場が冠水しているので、駐車している方は、車を移動させてくださいというのです。

起きてみれば、空港への連絡バスは運行中止、JRも動いていません。とんだことになっていると、私鉄を乗りついで、空港へたどり着き、早目の便に乗り換えて、無事帰りつきました。
でも、電車の中からみた河川の増水状況や、冠水した田畑、ひどい状況でした。

帰りついてみるテレビのニュースで状況の深刻さをみると、よく帰りついたと安心すると同時に、あの状況を抜けてきた後ろめたさも感じてしまいます。
災害多発の去年と今年、どうしようもないのでしょうか。

古書と古本

古書と古本というと、内容に違いがあるのだろうか。古本というと、汚らしい、棄てる寸前の本を想像し、古書というと、古いながら、少しは汚れているかもしれないが、価値ある書籍を考える。

独身のまま亡くなられた方の別荘が、わが家からそう遠くない区画にある。亡くなられた方は、学校の先生をなさっていた。専門が何かというのは知らないが、別荘には、「日本の民話」(未来社)全巻が残されていた。
別荘は、数年空き家のままだったが、去年の東日本大震災、福島原発事故のため、避難中の浪江町のあるご夫婦が住まれることになった。

遺品はほとんど処分されていたが、この全集は残っていたらしい。分量はあるし、ご夫婦はいらないとのこと、またお子さんたちも必要としないらしい。村に寄付できたら、ということで、村の図書室、高校の図書室に声をかけたけれど、この種の全集は場所をとるだけでなく、利用もあまりないので、折角ですがいりません、とあっさり断られた。

すばらしい本である。1974年出版で、ここにある全集はすでに3刷となっている。おそらく売れたのだろう。
日本国中の民話が集められている。いい話ばかりだ。これが利用されないのは勿体ない。
でも図書館などで、保管・展示の場所がないのも事実なのだ。

前橋にある本屋さんに出かけた。この本屋さんは、1階と2階は普通の本屋さんで、3階が古本を扱っている。「日本の民話」はすでに棚にあった。全集そろっていない。店員さんによると、けっこう人気があり、分冊で気に入った地方のものを買っていく人がいるという。

さあ、どうしよう。小学校の読み聞かせに利用もできるけれど、来年には小学校が併合され、読み聞かせにその後も通うかどうか、まだ決めていない。自分で読みたい気持ちもあるのだが、全集となると、それこそ場所もとるし、わが家に置くだけのスペースもない。

など、考えながら、古本の中から、復刻版の詩集をみつけた。野口雨情の「十五夜お月さん」(ほるぷ出版)である。本は買わないと、つれあいには言うけれど、野口雨情の詩に魅かれて買ってしまった。
以前には、大岡昇平の「俘虜記」をやはり全集のなかから分冊で買ってしまったことがある。

しかし、古本・古書というのは、このごろ出版されるものとちがって、字体が違ったり、雰囲気が異なるので、ついつい手にとることがない。まずは字が小さいこともある。
こうして、本はたまっていく。いつもいっそ全部を古本屋さんに引き取ってもらおうと言っているのに。

この家を建てた時には、ベランダで緑の風に身をゆだねながら、読書三昧の日々をおくる予定だったのだが、庭や畑に追われて、読書はどこへいったやらである。

ちなみに、わが著作は、古本の本棚にも見当たらない。

信仰とは?

先日逮捕された高橋克也は、いまだにオウムの信仰を持ち続けているらしい。麻原彰晃の著作を、逃亡の間も手放せずに、コインロッカーにしまったまま、そこから遠くにはいけなかったとか。

彼にとって、オウムはまだ存在する実体なのだろう。非合法化されても、非道なことを実行して、犯罪者として追われていても、その信仰は揺るがなかったというのだろうか。

私はクリスチャン、カトリックの洗礼もうけている。今日は日曜日、ごミサに与った。神様を信じているか?と問われると、それは「信じている」と答える。それでは、神様とはどんな存在か、とか、キリスト教の教義は?などと問われると、確たる返事ができない。

キリストはマリアから処女懐胎で生まれたというが、それがはたして可能なのだろうか、とか、ご復活の奇跡をどう考えるか、などは、私自身も納得できないでいるのだから、聞かないでほしい。

そしてごミサをさぼったときなど、罪の意識とともに、世界全体で、日曜日にはごミサが行われているわけだが、そのわりに、世界が平安になったと思えないし、まずは、キリスト教は2000年以上の歴史があり、愛の宗教といわれても、歴史は戦争を繰り返してきた。

どの宗教にも、血にぬられた部分はある。新興宗教にその部分が現在の時点でおきたのを否定するのは妥当だろうか。
オウムがしたことを肯定するわけではない。しかし、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、その成立の過程では、もっと陰惨な、血みどろの事件があったに違いない。

私は、いつも守られているという感覚があり、その守ってくれるものがキリスト教でいう神と感じたから、受洗したのだが、教義そのものをまともに学んでいないのだ。時代錯誤もあるように思う異端者でもある。
キリスト教徒がもしこの日本で迫害されたとき、はたして信仰を持ち続けることができるだろうか、とか、踏み絵を強要されたとき、どうするだろう、など、時として眠れない時考えて、また眠れなくなってしまうことがある。

高橋克也が現在、拘束された自分を、罪を犯したからと考えているのか、宗教上の迫害を受けていると考えているのか、知りたい。

親の扶養

生活保護を受けている人の子どもが高額所得者の芸能人だったというので、受給の妥当性が問題になった。
芸能人の弁明は、母親が祖母と暮らしていたが、骨折?で働けなくなり、当時、彼はまだ下積みで、収入が不安定であり、母親本人が生活保護を申請したもので、彼はその事実を知らなかったというような内容だった。

この問題を、自民党の議員が追求したのだが、この追求を是とする人、非とする人、賛否両論だったようだ。この芸能人に限らず、子どもが十分な収入をあげているにもかかわらず、その親が生活保護を受けているケースがいくつもみつかったようだ。それを不正受給といっていいのかどうか、それはケースによりけりだという。

根拠の一つに、親と子は独立した個人であり、子は自分の生活を犠牲にしてまで、親を扶養する義務はないというのだ。
時代なのかもしれないが、なんだか、さびしい気分にさせられる論理である。

自分のケースを自慢するのではないが、わが家は父と母の生活を子どもがみていた。主として長男である長兄である。親の老後だけではない。長兄は、大学を卒業して就職するや、その給料の一部を、実家に送金していた。実家には、10人近くの人間が生活していたのだ。その当時、父も母も働いてはいたが、とても10人の生活、その中には私も含めて、まだまだ教育を受けなければならない人間がいたのだ。父母の給料だけではとても不足だった。

長兄はまだ自分の肉親だからいいとして、私は兄嫁に頭があがらない。それを承知で結婚したのか知らないが、新婚当時から、給料のほとんどを送金していたという。子どもも生まれ、それなりに生活の質を向上させたいであろうに、本当に質素な生活だった。

住宅ローンや車、子どもの塾やおけいこごと、そういった費用を犠牲にすることはない、という説明を聞くと、当時の長兄や兄嫁の心境をどう考えればいいのだろう。子どもがピアノを習いたがったけれど、とてもその余裕はなかったと、兄嫁は一度話したことがある。
私は恥ずかしかった。送金を受けている方の私は、ピアノを習っていたからだった。

長じて、私も働くようになり、父母はまったくの退職者として生活していた。長兄の指示で、私もごくわずかであるが、父母に送金するようになった。収入に応じて、というので、本当に小額であったが、収入自体が本当に少なく、自活するだけで精一杯、毎日、財布を逆さにして、残金チェックするような日々だったが、給料がはいれば、最初に送金というのは、毎月怠りなく実行した。

それはやはり、長兄夫婦が、自分たちの生活を犠牲にしても、送金をしてくれていたことへの感謝からである。親は子どもを扶養するのに、犠牲とはいわないだろう。だから、子も親の生活をみるのに、いろんな条件付けをするなんて、考えられない。

父が亡くなり、母だけになったとき、長兄から弟へと送金の主体は移ったけれど、また私の負担額も増えたり、いろんな変化はあった。私が結婚して、職を離れ、無収入となったとき、つれあいに母への送金は続けたいと頼んだ。つれあいも厳しい生活を送った人なので、親への送金は、無条件で引き受けてくれた。母が亡くなるまでの10年、つれあいがを負担してくれたことへ、感謝あるのみだ。

長兄も兄嫁も、恩にきせることなく、自然にやってくれた。そんな家族の中で育ったので、どうしても、最近の主張には違和感がある。
家族というものへの認識が変わったことは自覚している。扶養はその最たるものかもしれない。

マニフェストの扱い方

マニフェストとは何ぞや、選挙公約とは違うのか、3年前の話では、全く違うということだった。公約は選挙用のアドバルーンであり、なんら守る必要のないもの。かたやマニフェストは、実現可能な事項を扱っており、あるいは実現の手段にまで言及してある、というようなことだった、と記憶している。

何が実現したのやら、民主党のホームページものぞかないし、メディアの報道でもあまり知るすべはない。

フランスでは、この6月の国民議会選挙で発足した内閣が、早速新しい政策を打ち出しているようだ。その一つにmariage pour tousがある。これは同性の結婚を認めるというものだ。来年、実現するらしい。それに関連して、同性のカップルが養子縁組をする、つまり子どもをもつことも認めるそうだ。

そんな中で、サルコジの経済政策のなかにあった増税に反対していたはずなのに、TVA(フランスの消費税)が19,5%から20,5%に1%アップさせるというニュースもあった。さりげない報道ではあったが。

民主党のマニフェストを知らずして、物をいうのもなんだが、たとえば、夫婦別姓や、ハーグ条約など、金銭とは関係のない法律などを通して、それを強力に宣伝すればいいのに、と戦略的方法のなさを感じる。どんな事情があったか知らないが、八ツ場ダムにせよ、建設を止めると決めたのなら、断固止めれば、それはそれでメッセージとなったのに、2転3転、今、どんな状態にあるのかわからない。

消費税はもちろん国民生活に重大な影響を与えるから、議論をすることは大切だが、税そのものの議論より、賛成・反対の人たちの動静に焦点が当てられすぎている。

今日のガソリン代は、1リットル128円だった。たしか、ガソリン関係の税金も廃止のはずだったし、高速道路も無料化になるはずだったのに、と守られなかった部分を、誰のせいと、まだ責任を問えずにいるのがもどかしい。選挙でもあれば、ものみせてくれるものを!!!

党名は小沢党になさったら?

「正義は我にあり」というような論調で、小沢一郎氏が挨拶をされる場面をみるのには、ほとほと飽きがきている。新会派の名称は、「国民の生活が第一」という長ったらしいものだとか。そして、来週には発足するであろう新党の名称も、「国民の生活が第一党」となるらしい。

党首は、新党参加者の圧倒的な推薦で、小沢氏が就任するのだとか。それも選対委員長兼任だという。
もういっそ党名を「小沢党」にすればいいのに。これで何度めの新党なのか、記憶力の悪い私は忘れてしまったし、新進党やら、自由党、どれが先だったやら、混乱している。これを「第一小沢党」、「第二小沢党」などと命名してくれていたら、今回が何度めであるかは、すぐにわかるし、どうせ、小沢氏以外の政治家は、一般の人には重要性が感じられない。

なにかと言えば「一任」をとるのが得意そうだし、「小沢一任」で進行する政党なら、「小沢党」以外、名前は考えられない。
「国民の生活が一番」なんて、誰もが信じられないような名前にすると、ぼろが出た時に困ることはみえている。
それもすぐにおこりそうだ。

税金をあげない、後期高齢者制度をやめる、子ども手当は支給する、どこからお金をもってくるのやら、言うはやさしく、行うは難し、なのに、いうばかりの小沢氏とその周辺、国民の支持がどれだけ得られるものやら。
景気をよくして、税収をあげる、どうやって?と聞きたいことばかり。


劣等感をもつのも若いうち

加齢化現象のひとつに図々しさがあるようだ。体重が増えて増えて、もしこれを成長というのなら、まだ成長していると喜ばしいのだが、退化しているのだから、この体重増加は喜ばしいはずがない。
この体重増加を指摘されて、それがどうした、みたいに平気で聞き流した。

そして気がついた。なんと神経が太くなったことよ、と。これも成長かと。
昔は、こんなに体重がなかったのに、平均より重いというだけで、敏感に反応していたのだ。
小・中・高校を通じて、人より身長が高く、それにあわせて体重もあった。決して肥っていたわけではないのだが、身長が高い分、体重があったのだ。

人より身長があるというのすら、劣等感の一つだった。小学校のとき、級長をすると、列の最前列に並ばされた。列は身長順なので、私の後ろはクラスで一番小さい子だ。最後列なら、同じくらいの身長の仲間がいるのに、いつも居心地の悪い思いをさせられたものだ。

中学校や高校で、男子生徒とフォークダンスを踊る時など、男子生徒は、自分より大きな女子生徒とはバランスが悪いと、敬遠されていた。私より大きい人は半分くらいしかいない。だから、半数の男子生徒からは、我々背の高い女子生徒はいやいや踊るという態度がみえていた。
ときどき、「大女と踊るのはヤーなんだよな」という声さえ聞こえると、いよいよ劣等感にさいなまれたものだ。

165センチという身長は、今ならそう高いものではないのだが、当時はやっぱり大きくて、男性にもてないのも、そのせいだと信じ切っていた。高校のとき、男子にもてるのは、可愛いタイプの女子で、大女のジャンルに入る女子は、恋文を寄せられることなどなかったのだ。

長じて、大人になり、働くようになっても、職場の男性と、友人として付き合っても、女性としてみられている感じがなかった。日本の職場だけではない、外国機関で働いているときですら、女性とみれば口説くといわれているイタリア人ほどではないが、女性にやさしいフランス人に囲まれていて、それでももてないのは、よほど魅力がないものと、本当に思い込んでいた。

時がたてば、自分というものを受け入れるようになるものだ。人生60年をすぎれば、身長も体重も、親からもらったものというより、自分で形成してきたものと言える。あるがままに受け入れざるをえなくなってきた。
なんであんなに劣等感をもっていたのだろう。今でも、たまに「大きいですね」と言われる。特に、今住んでいる村の高齢者は小柄な人が多いので、大きくみえるらしい。

「大きいことはいいことだ」というコマーシャルには助けられたが、それも昔。これからこの身長・体重がちょっと問題になるのは、介護をうけるときと、棺桶のサイズだろう。もうどうでもいいや、これが到達した達観である。

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