老いの兆し

年が改まったら、誕生日はもっと先の話なのに、老いを感じることがしばしばだ。顔の変化、肉体の内部の変化はもちろん、とっくの昔だが、あらたに気力の低下がある。

もともと家事はきらいなので、やりたくないことがだんだん増えてきた。掃除は週に1回がせいぜいになった。それもいい加減な掃除だ。
働いている人は、週に1回なら、うちもよ、と言われるかもしれないが、毎日、自宅にいる私は、汚すし、汚れるしで、少なくとも、2日か3日に1回は掃除しなければ、と思っている。ところが、朝、新聞を2キロ先までとりにいって、帰宅すると、もう掃除をする気持ちが失せてしまう。せいぜい、お風呂を流すだけだ。

食べることは好きだけど、料理もめんどうになった。以前は、夕食については野菜を8種は食べようと心掛けていたが、このごろでは4種くらいでおさめている。そしてお漬物もしっかり数のうちにいれ、面倒な時には、納豆が1種として登場する。冬場の生野菜は、体を冷やすので、あまり食べたくない。根野菜がいいのだが、下ごしらえが面倒だ。それに生ごみも増える。

なんせ、なにもかもが面倒に感じてしまうのだ。気力がなくなるというのは、きっとこのことだろう。今でこうなら、あと5年たったとき、どうなるのだろうと怖くてならない。

書かなければならない手紙、かけなければいけない電話、なにもかも先送りしている。読まなければならない本は山積みになっているし、繕いものは、針箱の上においたまま、ほこりをかぶっている。

記憶力の低下もはなはだしい。脳の運動とばかりに、なるべくBSでの外国ニュースは原語で聴くことにしている。ということは、ほとんどわからず聞き流しだ。たまに英語やフランス語で耳に残った単語を、手元においてある電子辞書で調べるなんてことはするのだが、1時間もすれば、何の単語を調べたのやら、なにも残っていない。調べるだけ無駄というものだ。

走ろうと思っても、走れない。飛びあがれない。飛び降りることができない。字が乱雑になる。なにもかも、先人から言われてきたけれど、まさか自分がそうなるなんて、とそうなって驚いている。

老いの兆しが兆しで収まっているうちはいいのかもしれない。これが老いそのものになったとき、を考えるとこわい。


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