コンゴの今後

先日、コンゴ・キンシャサにお住まいのシスターから長いメールをいただいた。長いのは、カトリック司教から出されたメッセージである。

シスターのメールでも触れられていたが、2011年11月にコンゴでは大統領選挙が行われた。大統領選挙は2回目で、現職のカビラ大統領が再選されたとの発表があった。しかし、選挙違反が多いことと、選挙結果も虚偽であると、野党候補も独自に当選を宣言するなど、相変わらずの混乱ぶりであった。
キンシャサ市内では、発砲事件もおきるなど、決して平穏な選挙ではなかったことが、めずらしく、日本のメディアでも報道された。

その後、何も報道がないので、結局はカビラ再選で落ち着いたものと思っていたのだが、シスターはとんでもないと現状をメイルしてくださったのだ。大統領選挙と同日、国民議会(日本の衆議院)の選挙も行われたのだが、その結果がいまだ公表されないのだそうだ。そして大統領も当選を宣言したものの、その後は姿をみせないという。
大統領不在、議会が成立せず、政府も構成されない、無政府状態にあるのだという。公務員や軍人、警察、の給料は数カ月にわたって不払いとか、サボタージュが行われているとはシスターのメールになかったが、労働意欲がないことは触れてあった。

クリスマスや大みそか、新年となれば、夜を徹して、大音声のスピーカーで音楽やらDJもどきやら、全市をあげてというほど、騒ぐものだが、今回は静かなものだったという。不穏な空気が漂っているようで、心配でならないとのことだった。
わいろや縁故主義、相変わらずで、政府の要人たちは、私財をため込んでいるとか、不正がはびこっているのだとか。そんな状態に、カトリックの大司教をはじめ宗教人たちが、声をあげたのだ。

デジャヴュの世界である。私たちがいた時とちっとも変らない。この国は、独立の時から、常にこんな状態を繰り返していたように思える。資源は、金、ダイヤ、コバルト、ウラン、銅、コルタン、天然資源でないものはないほどに豊かで、ポタンシャル(潜在能力)は無限大とまで言われているのに、この貧しさ、不安定さはどうしたことだろう。学ぶということがないのだろうか。これでは、独立後の政変は、中国の改姓革命と全く変わりがない。

どのようになっていくのか、反政府勢力といったものがあるのか、部族抗争はあるのか、外国の介入が考えられるのか、資源に対する諸外国の権利はどうなっているのか、情報不足なので、予想はつかないが、コンゴの今後が心配でならない。

危機管理

クルージングの客船座礁のことで、まだいろいろ考えている。4000人が避難する方法だ。ゴムボートなどが装備されているのがみえたけれど、1隻に何人が乗れたのだろう。その順序をどういうふうに決めたのだろう。
普通、こういう場合、女子どもを先にというけれど、みていると、子どもは少なく、老人が多かったようだ。
夫婦を別々に扱うのか、一緒にするのか。はたまた、1等船室の客から始めるのか、など、想像している。

タイタニックの映画では、はっきりした等級の差別があった。それにタイタニックの場合は、ゴムボートに乗れた人たちだけが救われて、岸への往復というのはあり得なかったから、乗れるか乗れないかが生死をわけるのと同じだった。今回は岸からも近かったけれど、往復したのだろうか。

フランスの元船長は、こういう大型客船の場合、避難は難しいという。まず船客を集め、指示を下すまでの余裕があるのかないのか、その判断も大変だ。大洋の真ん中などとなると、条件はもっと悪くなる。
ヘリコプターによる救援が有効だというが、200機は必要といい、そんなにそろえられる国はないだろうということだった。

結局、私の場合、本当の危機に遭遇しなかったけれど、つれあいとよく想定問答をした。コンゴの首都キンシャサが内戦であやうくなってきたころのことだ。わたしたちの住まいはそう大きくなくて、ヘリコプターの発着はできないけれど、たとえば、それが可能な場所まで逃げていく。そこで女子供が先の場合は私が乗機するけれど、体重の軽い人を指定されたら、さあどうっちになるか、といって冗談で言いあっていた。

ベトナムの内戦の最後でも壮絶な脱出作戦が行われた様子を、ニュース番組の回顧などで見るけれど、キンシャサでもそれが起こりかねない情勢だった。私は反乱軍が侵攻する前、まだ定期便が飛んでいる間にヨーロッパへ避難したけれど、つれあいは、結局、1週間後、隣国へフェリーで逃げることになった。残留邦人全員で、フェリーニ乗れるのかどうか、もし全員乗れなかったらどうしたのだろう。

危機管理は難しい。言うのはやさしく、実際に遭遇したら、そう簡単ではない。私はそういう場合にリーダーにはなれず、指示に従う方だけれど、このごろ、昔の反抗心を抑えることはできるようになった。指示に納得できなくても、必要な場合は、それに従うということだ、と言うと、日常からそのつもりで、とつれあいは言う。

そうは言いつつ、日本の現在は、危機的状態にあるが、はて、リーダーは誰で、どう指示を出しているやら、ちっともはっきりしない。こういう場合は、誰の指示に従うべきなのだろうか。

プロ意識

13日に座礁した豪華客船の船長の言動が報道されている。夜の9時半ごろの座礁で、真夜中前には、もう避難していたらしい。そして、自分たちは最後に避難したのだと言っていた。

とんでもない船長だ。船長は、遭難したとき、最後に船を離れることといった法律もあるらしい。彼は殺人罪の容疑で逮捕されたとか。当然の話だ。6人?もの死者が出て、まだ行方不明者もいるという。

会社は、船長の操船ミスや、避難の手順が、会社が定めたものと違っていたと、現場の責任にしているが、そうした人たちを雇用していたという責任は問われてしかるべきだ。

フランスのニュースをみていたら、豪華客船は、それ自体が危険な建造物だという。船体の様子をみていても、喫水線の下部部分より、上部のほうが大きく、均衡がとれているとは思えない。
座礁した客船には、1500の船室があり、4000人以上の乗員・乗客がいたというが、1500の船室に2人ずつとしても3000人が乗客、1000人がスタッフだったと思われる。

3対1だとすれば、避難誘導に問題はないだろうと思うが、その1000人が全て、訓練を受けていたかどうか、それが疑わしい。訓練を受けていないとすれば、お客様てきな感覚で、乗客と同じ意識をもっていたのだろう。
映画の上ではあるが、タイタニックで、最後まで讃美歌を演奏していた楽団員の姿を思い出す。

このごろはなんでも巨大化していて、飛行機も1000人が乗れるエアバスが誕生した。なんだか、不安でならない。1000人もの人数と荷物をのせて空に浮くというのが、昔人間には信じられない。
船の乗員と、飛行機の乗員を比べることはできないが、鉄道にせよ、プロとしての意識がこのごろ希薄のように感じられる。これは交通機関に限ったことではなく、全ての職業にいえるのかもしれない。

なにかにつけ、アマチュアの感覚を尊重したり、中途半端なことで納得したり、というのは昔人間の受け止め方だろうか。自分自身でも、とことん突き詰めて考えることをしなくなった。この程度でいいや、となんでも妥協してしまう。

議員さんにも言いたい。あなた方を選んだのは、日本の行く道を正しく整えていただくためで、あなた方の議席を確保するためではないことを。政治のプロとなって、次の選挙のことより、政策をきちんと決めてください。


豪華客船クルーズ

13日の金曜日、地中海クルーズの豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁して、死者もでる事故となった。人によるとタイタニックの再現だという。

数年後に迎える結婚ウン周年に、豪華客船による世界一周なんてどう?とつれあいに言っていた。実現しないのは承知の上での問いかけである。1等客室で、ドレスコードもクリアして、なんていうことになれば、どれだけの出費になるか、わかりはしない。年金でつましく生活している人間のすることではないし、できはしない、とつれあいは現実的だ。

私もクルージングにはお金がかかることを知っている。またまた何十年も前のこと、当時、アラビア半島に住んでいた義兄が、一家で夏休みに日本へ戻る前に、エーゲ海クルージングをするという。母を誘ってくれた。九州に住む母を、東京からアテネまでどう送りだすか、安いチケットの手配も頼まれた。

一番安いのは、アエロフロートのモスクワ経由である。いろいろ検討した結果、姉は、私に同行することを求めた。費用は義兄がもってくれるという。即、休暇もとり、母とともにアテネに向かった。
ピレウス港から乗り込んだ船は、現在運航している豪華船に比べると、ふつうの客船といった感じだった。初めてのクルージングに期待感はあふれていたが、通された船室は、地下であった。窓からは海面がすぐに見える。
母だけの招待なら、上階の船室を予約できたのだが、私の分もあるので、予算上、安い部屋へ変更したのだ。

クレタ島、サントリーニ島、ミコノス島など、エーゲ海の島々に寄港する予定だった。サントリーニ島では、船着き場から急な坂道をロバにのって登っていく。ロバに乗りたくない人は、ケーブルカーがあったようだ。70歳をこえた母には無理だろうと思っていたが、頂上に先について、後ろを振り返れば、甥たちが続き、そのしんがりは母である。とても楽しかったようだ。
ミコノス島は、波が荒く、接岸できませんからパスします、と言われ、このきれいな島を母にみせたかったのに、と後年、母をつれて再訪することにもなった。

こういうエクスカーションや特別のディナー(これが2回に1回はある)、何かの催し、これらは無料ではない。けっこう高額の費用がかかるようになっている。そして最後には、楽しい航海がおできになりましたでしょうか、スタッフへの心付けをお忘れなく、とアナウンスがあり、しかるべき金額のチップを求められる。ドル(現在のレートとは違う)で払うのだが、貧乏人にはつらい金額だった。

だからたとえば10万円で売り出されたクルージングでも、あと5万円は追加せざるを得ない、と思う。地中海クルージングでは、たとえば、イスラエル、トルコ、イタリアなどのキリスト教の聖地を訪れるものとか、カリブ海のクルージングなど、魅力のあるものが多い。世界一周とはいかなくても、こういった1週間や10日間程度のクルージングには参加してみたいと、今でも思っている。

しかし、今回の事故はどういうものだろう。沿岸を運行しているだけなのに。油断なのだろう。


刑務所について

フランスのマルセイユに住んでいた時のことである。街の中心地から自宅まで、バスを使うことがしばしばあった。2つのルートがわりと自宅近くまで行く。その一つはボーメット行きであった。ボーメット行きのバスを使っているというと、知人たちが「フ、フ、フ」と笑う。

最初はどうして笑うのか、理解できなかった。自家用車で移動するのが普通の世界で、公共のバス(使い勝手の悪いものだった)を使っているのがおかしいのかな、と思ったが、ある日、ボーメットというのが地名でもあり、そこに刑務所があることを知った。

フランスではパリのサンテ刑務所と並び称せられるほど、有名な刑務所なのだそうだ。一度だけ、好奇心で終点のボーメットまで行ったことがある。高い塀で、その上には鉄条網もはりめぐらされており、なかなかいかめしい建築物であった。それでも門のところで人の出入りがあるので、不思議に思ったが、面会を許された家族が出入りしているのだそうだ。

広島の刑務所も街中にあったけれど、ボーメット刑務所や、パリのサンテ刑務所の周囲にもけっこう建物がたてこんでいる。
フランスでは、脱獄というのは、大掛かりでたびたびおきる。ヘリコプターで脱獄した例など、映画のシーンのようだった。

脱獄の例でいけば、マルセイユにはイフ島がある。港の中の小さい島だが、牢獄があった。ヴィクトル・ユーゴーの小説「岩窟王」の舞台の島だ。エドモン・ダンテスが神父様のもとへ通ったという穴もあり、またフランス革命やその後の政治犯が収監されたという部屋もある。歴史が実感される島である。死亡した神父の遺骸にかわって、ダンテスが砦から海に投げられるというシーンもあるが、周囲は岩ばかりで、砦から投げられるというのは、ちょっと疑わしかった。

カンヌから船で15分くらいのところには、鉄仮面が収容されていた島もある。また、南米には仏領ギアナに、凶悪犯を収監する島があった。脱獄は不可能といわれていたが、映画にもなったが、「パピヨン(蝶)」と呼ばれる男性がついに脱獄したこともある。

今回の中国人の脱獄は、きちんと計画されたものかと思ったが、そうではなかったようだ。中国マフィアという存在があるのかないのか、今回の脱獄劇では少なくともその介入はなかったようだ。
外国では、刑務所にはいっても、脱獄は常に考えているとか、日本の性善説:刑期をきちんとつとめて、一日もはやく仮釈放にしてもらう、という考えは通じないようだ。

ラジオ体操

今朝、久しぶりにつれあいがラジオ体操をしようと言う。もう午前中とはいえ、テレビでもラジオでも体操はとっくに終わっている時間帯だが、わが家にはラジオ体操のビデオテープがある。それをかけて、第一と第二体操を続けてやった。

若いころは、ラジオ体操など、体操ではなく、遊び程度に考えていた。ところが、ある時から、しっかり体操なのだということを実感している。体操をしたあとに筋肉痛がでたり、また体操のお姉さんと同じようにしているつもりで、似て非なるものなのだ。

しかし、ラジオ体操とは、よくできた体操だと思う。その普及の程度がすごい。日本国民、あるいは日本の公立小学校を卒業した人間は、みんなこのラジオ体操ができるのではないだろうか。
ペルーの日本大使公邸占拠事件のときも、運動不足解消や気分転換のため、捕虜になった日本人はラジオ体操をしていたと聞いた。

アフリカのコンゴにいたときのことだ。ある学校を、体操の授業が行われているときに訪問したことがある。体操といっても、校舎をでて、屋外に整列し、なにかしら、先生の指導で体を動かしているというだけだ。
その時、ひらめいた。日本のラジオ体操を導入したらどうかと。

日本に一時帰国したとき、ある新聞記者の方にお目にかかり、そんな話を雑談でした。その記者は、面白い、と言って、NHKからラジオ体操のビデオテープを10本ほど手に入れてくださった。コンゴに持ち帰ったが、そこではたと気付いた(気づき方が遅い!!)。学校にビデオの再生装置がないことに。

あちらの学校は、ナイナイ尽くしで、テレビもビデオの再生装置もなにもない。ラジオだってないかもしれない。それにビデオのシステムも違う。学校への普及はできないが、ご近所にいらっしゃる日本人のシスターにこんな失敗を話すと、ぜひ、そのビデオをくださいとおっしゃる。修道院でお使いになるのだそうだ。
彼女は日本の再生装置を持っており、使用可能だ。修道院のシスターたちも高齢化時代となり、運動しないから、肥満と高血圧など、慢性的な病気にかかりやすいとか。
(体操とか、運動をきちんとするというのは、一種のぜいたくな行為であることにアフリカで気付いた)
せっかく、記者の方から頂いたもの、少しは役に立てなければと、もちろん差し上げた。

ラジオ体操は、もう体に染みついているようだ。10歳年上のつれあいもちゃんとできるから、「明治時代からあったのかしら」とからかうと怒られるが、戦前(太平洋戦争であって、応仁の乱ではない)から普及していたようだ。
キンシャサに赴任して、世情は不安なまま、外出は車、散歩にも出られないといった状態の時、ベランダに出て、ラジオ体操をすることにしたのだ。音楽もなく、二人で「ちゃんちゃかちゃん」とメロディーを口ずさみながら、どうにか最後まですることができた。

日本がどうにかまとまっていっているのも、言語が一つということもあるけれど、こういう存在も大きいのかと認識したり、国旗・国歌といったおおげさなものではない、日常的な体操のようなものでも、国民が一体化できるものがあればいいのに、とも思ったのが、記者の方に話した一理由でもあった。

そのシスターも、35年の海外宣教の任務をこの6月で終わられるそうだ。あの修道院で、ラジオ体操が普及したかどうか、お帰りになる前に伺ってみよう。
ルブンバシにいらっしゃるシスターには、パソコンで再生できるように、DVDをお渡ししたけれど、そちらもいくらかコンゴ人に教えられただろうか。

いつか再訪でき、「ちゃんちゃかちゃん」のメロディーが聞こえたりしたら、どんなにうれしいだろう。

4億円ははした金

みなさんにとってのはした金というのは、いくらだろうか。はした金というのは「わずかの金銭」だそうだ。20代、30代のときは、毎日、お財布、小銭入れをチェックして、残金を調べていた。その当時は10円の単位ですら、大切なお金だった。

今では小銭入れはほとんどチェックしない。お札をいれている財布は毎日チェックはしないけれど、いくらはいっているか、気にはしている。だからはしたとまではいえないが、100円単位までは気にしないのかもしれない。

この2日間の民主党元代表小沢氏の弁明、やっぱり驚きだ。「現金で持っている方が、安心、安全だ」とか。自宅ではなく、事務所に保管されていたらしいが、警備について、そんなに信頼がおけるのだろうか。
それに4億円は、「両親から相続した不動産や現金、著書の印税、議員報酬をためたもの」などとのことだが、ご両親からの相続分については、ちょうどバブルの時期で、売却益がそうとう出たらしい。その場合の納税や、また以前の説明では、妻子の名義でしていた預貯金を集めたという言葉もあったけれど、相続税や贈与税を脱税した事実はないのだろうか。

昔の金丸氏逮捕の事件を思い出す。あのとき、金丸氏の自宅から、金塊がみつかり、脱税などで追及された。お金には名前がかいていない。どうにでも言い逃れできるから、という意図が隠されているのではないのか。
4億円を秘書に渡して、その後の報告は受けていないような、また不動産を購入し、4億円もの金額を払って、登記は1年もあとのこと、こんないい加減なことですませていた。

天下国家のことを考えて、自分の政治団体や事務所のことは秘書任せだったとか。彼の考えたことが本当に天下国家なのか、彼はなにを成し遂げたのか。
小選挙区にしたのは、彼の指導によるものだそうだ。以前の中選挙区制度は、記憶はあるが、1つの選挙区から同じ党の候補者が2人、3人とたち、身うち同志で戦うような、政策ではなく、情実の選挙になっていた。日本の民主主義が成熟しないのは、中選挙区のせいだ、と言われ、2大政党にならないのは、そのせいだと言われていた。

イギリスやアメリカのような2大政党こそ、民主主義の理想形と言われていたし、そんなものだとも思いもした。だから小選挙区になったとき、ステップアップしたと思ったものだ。しかし、それが実施されて、まして、3年前に政権交代ということが成し遂げられたけれど、選挙制度の矛盾は残り、はたして民主主義が浸透したのやら、そしてしかるべき選良となっているか、おおいなる疑問である。

政党助成金については、どうなのだろう。彼は、常に政党を作っては壊し、助成金の残りは国庫に返すことなく、持参金にして、次の政党での発言力強化に使っている。
彼のいう天下国家というのは、選挙だけのような気がしてならない。

民主党にはもう一人、お金をお金と思っていない人がいる。宇宙人ともいわれているが、母親から1500万円の寄付を毎月受けながら、聞いていなかったという。かれも秘書任せだった。

こんなにお金に無造作な人が政治をしていて、それは100円、1000円に細かくなれというのではないけれど、国民の生活が第一、と言えるのだろうか。

裁判がどう進行するのか、見守るだけである。小沢氏、あるいは宇宙人に対し、なんら行動はとれない。とれるとすれば選挙でだが、残念ながら彼らの選挙区は岩手であり、北海道だ。私の1票は影響力がない。

しかし、100人もの国会議員が信奉するのだから、小沢氏というのは、よほど求心力のある人物なのだろう。でも毀誉褒貶がこんなに激しい人も、田中角栄以来だろうか。

もう一枚の毛皮のコート

昨日書いた白ミンクのほかにもう一枚毛皮のコートを持っていることに気付いた。それもロングのコートである。色は濃い茶、なんの毛皮なのか知らない。

これは40年以上前、初めての海外旅行で買ったものだ。場所はスペインのバルセロナ、値段は100ドル。これだけは覚えている。バルセロナの高台にある毛皮屋さんだった。どうして、そんなところへ行き、どうして買うことになったのか、詳細は記憶にない。

その時、変な商売っ気を出したのは覚えている。日本では毛皮は高価で、ロングのコートなど、めずらしいに違いない、持ち帰って高く売り、旅行の費用を出そう、そんな計算をしたのだろう。浅はかな考えであった。ロングのコートが日本の気候や生活環境にあわないことなど、気付きもしなかったのだ。需要がないから供給もない、そんな簡単なことに気付かない愚か者であった。

今の100ドルとは違う。当時は1ドル360円の固定相場で、海外旅行の時は、1000ドルまでしか枠がなかった。親や親せきから借金して作った旅行資金、その中から100ドルを使うというのは、相当の決心だったが、清水の舞台から飛び降りる心境だったかもしれないし、猪突猛進てきな心理状態だったかもしれない。

この毛皮のコートをもって、それからスペインを旅行してまわり、パリへは9月に戻った。それからアルバイトをみつけてクリスマスまでの3カ月をすごしたが、後半、この毛皮コートは大変役に立ったのである。
夏の8月に日本を出て、お金のある限り続けるという貧乏旅行、9月の時点で、残金はあまりなかったが、さいわい、日本企業でアルバイトとして雇われ、日給50フランをいただけた。

住まいは、オデオン座(国立劇場)の近くにあるフランソワ・プリミエ(フランソワ1世)という名前は格式高いが、星1つの安ホテルだった。水しか出ない洗面台があるだけの、シングルルーム、1日10フランだった。安ホテルで、寝具は薄い毛布だけ。9月はまだそれですんだが、10月、11月となって、寒くなってきてもなかなか暖房がはいらない。
考えたのが、ロングのコートを上掛けで使うことである。これはとても暖かかった。これで暖房がはいるまでの間をしのいだのだ。

それに外出時にはまた役に立った。夏の服だけで来て、残留をしているので、暖かい服装がない。最低限を買ったりしたが、パリの秋・冬はコートは必需品だった。友達とオペラを見たり、音楽会に行くなど、なんでもみてやろう精神で、よく出かけていた。フランスはファッションが自由だから、若い女の子がロングの毛皮コートを着ていていも、別にじろじろ見られることもない。地下鉄代も倹約して、右岸から左岸へと歩いて帰る時、セーヌ川の川風も毛皮コートで耐えられた。

しかし、安い毛皮のコートだけのことはある。布団かわりに使うのはいいのだが、裏地がすべりがいいので、よくベッドから落ちる。半分眠ったまま、寒さを覚えて引き上げるのだが、毛皮がちぎれるのだ。
また、後ろにはスリットが入っているのだが、地下鉄などで座ると、無理に位置を変えたりすると、びりっと破れてしまう。ロングのコートを着こなすには、それなりの挙措も学ぶ必要があった。

粗悪品、欠陥品だわ、と思っても、バルセロナまで修理にもっていくわけにもいかない、そのまま私と同行することになる。スーツケースにはいったまま、パリのあとはイギリス、スイス、ギリシャ、タイと旅行を続けながら、日本まで持ち帰った。

日本でももちろん売れはしない。毛皮屋さんの知り合いもないし、持ち込む勇気もない。使いもしない。押し入れの奥にしまいこんでいた。しかし棄てる気持ちにはなれない。

パリの寒さをしのげたので、寒冷地にセカンドハウスを建てた時、何かの役にたつだろうと、そこの押し入れにぶっこんだ。敷物に使おうとすると、袖が邪魔だし、ソファーのカバーにも使えない。たまに極寒のとき、車のバッテリーがあがらないよう、エンジン部分の上あたりにかぶせたりしていた。

2011年3月11日、大震災のあと、避難所にいる方々の様子をみると、床に何の敷物もなく、座っている方もいらっしゃる。せめて役にたてるのでは、と送るものにいれてみるが、こういうものは受け付けられないという。
そうかもしれない。一人に役立つものではだめだろう。毛布など、汎用性の高いものが喜ばれる。

結局、このコートは相変わらず、押し入れの奥にしまったままである。ある日、浅間が冬の間に噴火し、夜の寒い中、夜営でもすることになれば、使えるかもしれない、などと、考えると、処分するにはいたらない。

40年前の100ドル、当時を思い出すよすがになっていることを考えれば、実用にならなかったけれど、白の毛皮コートとは別の意味で、役に立ったと思おうとしている。

毛皮のコート

今日はあまりに寒いので、毛皮のコートで出かけた。白ミンクのハーフ丈のコートは、30年ほど前、ギリシャを旅行したときに買ったものである。
ギリシャ北部にコザニという町がある。ここにギリシャ人の友人夫婦がいて、ぜひ遊びに来てほしいと誘われた。ある年、ギリシャ行きを計画し、コザニまで足をのばしたのである。

小さなアパートに娘二人と暮らしている夫妻は、豊かではないが、堅実な生活をしているふうだった。彼らはフランス語を少し話せたので、どうにか意思の疎通はできた。共稼ぎだったが、二人とも仕事を休んで、私を接待してくれた。そして、有名な崖の上にある修道院へと案内してくれた。
その途中に毛皮の製造・販売をしているところがあった。話の種によってみよう、と寄ったのが運のつきだった。

平日のことで、客はあまりいず、お試しくださいと、店員も親切、友人夫妻も勧める。毛皮といえば、あこがれの品である。悪いことに(本当は好都合だったのだが)、最初の本が出版されたばかりで、印税が少し入金されていた。その印税で買うか、とその金額にあいそうなものをピックアップした。
センスのある人なら、黒の毛皮を選ぶところだが、目立つことが好きだった私は、白を選んでしまった。今になって、白は襟元が汚れる(黄変する)など、経年変化が目立つから、よくないということがわかったけれど。

その後、東京の生活では、あまり毛皮というのはいらないということがよくわかった。公共の交通機関を使う場合、毛皮を着ていると、かさばるし、暑い。ほとんど着る機会もなかった。夜の外出の場合だけ、一度帰宅して、毛皮を着て出かけるといった状態だった。夏の間は場所をとるし、買うんじゃなかったと思うこともしばしばだった。
しかし、断捨離はまだはやっていないし、ある程度の金額を出費したのだから、簡単に処分はできない。邪魔にされながら、一応冬になると、洋服ダンスにつるされていた。

どうにか着始めたのは、マルセイユで生活するようになってからである。プロヴァンスは暖かいとはいえ、やはり冬場は寒い。とくにミストラルが吹けば、寒さも一段と厳しくなる。そして夜の外出が多かった。出番は増えた。

そして今、寒冷地に住んでいる。冬の寒さは相当のものだ。本当は軽いダウンのコートがほしい。しかし、この毛皮のコート以外にも、昔からのウールのオーバーコートが数枚ある。どれも頂き物だ。やっぱり処分できないでいる。ほとんど着ない。というのは、一度でも袖を通すと、クリーニングに出さなければならない。オーバーの料金は1枚2000円する。それにカシミアなどは、湿気を嫌うから、雪の日などには着られない。タンスにつるされたまま、シーズンオーヴァーとなる。かといって、新たにダウンのコートを買うのもモッタイナイ。

ある時、この寒さには毛皮のコートが使えると考えた。茶箱のなかにしまったままだったのを持ち出した。具合がいい。一時期、毛皮のアレルギーみたいになったけれど、寒さが厳しすぎるのか、それが出ない。着ていて、気持ちがいい。重量があるけれど、本当に寒いときには、重いとも感じない。それに、外国製だからなのか、サイズがゆったりで(一サイズ大きいのを買ったのかも)、中に着こんでも大丈夫。運転の時なども楽だ。

無駄だったかもしれないが、こうしてみると、無駄ではなかった。年齢を問わず(無視して)着ることができるし、30年たっても、流行遅れでもない。ようやくTPOを得たのかも、と思っている。

ウォーム・ビズ田舎版

イランからの石油の禁輸や、これ以上の経済封鎖を続けるとホルムズ海峡を封鎖するというイランの脅かしに、すっかり不安になっている。
アメリカは自国で石油を生産しているし、ヨーロッパはリビアの石油を、ホルムズ海峡を通ることなく入手できる。

すっかり石油頼りのわが家の暖房、メインは灯油、それに電気を使う暖房機器ばかりだ。友人は「昔のやりかたに戻ったら」と言うが、炭や練炭に戻る気はない。高校生くらいまで、こたつは練炭、それに手あぶりとして、火鉢に炭をいれていた。今それで、どれだけ暖かくなるだろう。一酸化炭素中毒を起こすほど、密閉された家屋ではないが、それだけに手元だけの暖房では効果がない。

小学生のころ、重ね着をしていたことは覚えている。だいたい6枚は着こんでいた。千葉に住む姉は、もっぱら着こんで寒さをしのいでいるという。そして着物が暖かいわよ、と言っている。私も格好などかまわず、ズボン下(女性用もそう呼ぶのだろうか)、ソックスは2枚(1枚は綿、上にパイル地の厚手)、セーターの上に、カウチンのチョッキを着込む。しかし、昔と違って、あまり着こむと、肩が凝ってくる。肩こりがおきると、頭痛もおきる。
だからあまり厚着をするわけにもいかない。

暑い季節ならしのげる、脱いでいけばいいのだから、と友人に言ったけれど、そうでもないことを知っている。今は寒冷地に住んでいるから、暑い季節といっても、しのげる暑さなのだ。
アフリカのキンシャサにいたとき、湿度は高く、気温も35度以上の毎日だった。冷房は24時間つけっぱなしと言いたいが、たびたび停電があり、それも長時間にわたることがあった。そんなとき、やはり暑さは耐えがたいものだった。風はなく、網戸ごしの空気のねっとりと熱いこと、タンクトップのTシャツになっても、汗はとまらなかった。
その時は、寒さなら着こむことでしのげると思っていたのだが。

家計のこともあるけれど、節電・節油もあって、暖房は20度に設定しているし、点で使用するようにしている。つまり食事の時は、食卓の下に敷いている電気カーペットをつけるが、終わると同時に消すとか、寝室の暖房は、寝る1時間前につけて、就寝時には消すといった具合だ。寝室は朝になるとこのごろは5度以下になっている。窓枠には氷がびっしりこびりついている。階下のサロンは、起きる30分前にタイマーセットだ。

お風呂場でのヒートショックなどもあるので、暖房をけちるのも考えものだ。つれあいは、遠赤外線なんとかという下着を通販で注文していた。私もユニクロにでも行って、ヒートテックのものを買ってくるべきだろうか。もう売っていないかもしれないが。

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