北朝鮮とRDCの共通点

RDCといってすぐにおわかりになる方は少ないと思う。Republique Democratique du Congo(コンゴ民主共和国)の略である。
12月17日、金正日がなくなり、その後のあふれるばかりの報道を見聞きしながら、いろんな点で、RDCとの共通点を見出していた。

まずは国名がある。北朝鮮の正式国名は、朝鮮民主主義共和国、民主主義という言葉がついている。RDCも同じく、デモクラティック(民主主義)が国名にある。
双方とも、私たちの考える民主主義とは似ても似つかぬ政治形態をとっているにもかかわらずだ。

そして、次に、後継の問題がある。RDCでは、2000年にローラン=デジレ・カビラ大統領が暗殺された。内乱のあと、カビラは大統領になったものの、これは自分で宣言しただけの地位で、選挙によるものではなかった。暗殺されたあと、そのあとを継いだのは、息子といわれるジョゼフ・カビラである。彼は一応2006年に大統領選挙を実施し、選挙の公正さをうんぬんするのをやめれば、選出された。そして、つい最近、2011年11月、再選されている。

長期政権のあとは、親から子へと、政権が委譲されることが多い。RDCではまだ2代であるけれど、北朝鮮では3代目となる。そして北朝鮮では、選挙という制度がない。3代目がどのように政権を維持していくのか、28歳という若さだから、もし、政権維持がうまくいけば、記録的な長期政権となりかねない。

最後の共通点というのは、映像でみる国民の悲嘆にくれる姿である。朝鮮半島のしきたりに詳しくないので、正確ではないかもしれないが、人がなくなったとき、泣き女という存在があって、「哀号、アイゴー」と、大げさに泣いてくれるときいたことがある。

泣き方が大げさであればあるほど、悲しみが深いと思われるのかもしれない。今回の金正日死亡に際しての、国民の泣き方をみると、さてもと思う。が、泣き顔をしているものの、涙があまりこぼれていない。諸外国も異常に思えるのか、この国民の泣く様子を映像で放送している。そしてフランスの放送では、ヒステリックと評していた。

RDCだけではないかもしれないが、アフリカでも一般に人がなくなると、何日間も泣き続けるのだそうだ。パパ・カビラが暗殺されたとき、もうRDCを離れていたので、実際に国民がどのように行動したかは知らないが、大げさな泣き方に、もうひとつの共通性をみるようだ。

こんな共通点の見つけ方というのも、なんだかこじつけのように思ったりする。

北朝鮮との接点

昨日、ガソリンスタンドでガソリンをいれ終わり、エンジンをかけると同時にラジオのスイッチをいれた。12時ちょっとすぎで、トップニュースは終わっているはずだ。なにか追悼のことばが述べられている。朝の海外ニュースで、チェコの元大統領ハベル氏死去が報じられていた。その追悼かと思った。

しかし、語調が違う。文章の構成が全く異なっている。そして、すぐに北朝鮮の金正日氏の死去のニュースであることがわかった。つれあいとともに、もうびっくりして言葉が出ない。
今年は、アラブの春で、チュニジアのジャスミン革命から、現在のところで最後はリビアのカダフィ氏が殺され、独裁者にとっては冬の年であった。

あとはシリア、サウジ、北朝鮮というところね、と常々話していたから、とうとう北朝鮮も革命かと瞬間思ったが、病死であることは、すぐに報道から知ることができた(真実はともかく)。

私のまわりに、北朝鮮との接点はない。しいていえば、アフリカ滞在時にみた北朝鮮の外交官たちである。彼らとは話す機会もなかった。レセプシオンで会っても、にこりともされず、こちらも会釈もしない。一度だけ、北朝鮮外交官の娘という若い女性が、親しげに話しかけてきたことがあった。まだ10代のかわいい女の子で、北朝鮮も招待されるのだから、たしか、中国かロシアの大使館のレセプシオンだったと思う。

アジア系の私の顔をみて、同国人とみたのか、あるいは、中国人とみたのか、わからないが、人懐っこい女の子だった。普通、成人でない家族は同道されない公式の場なのだが、出席を許されたのがきっと嬉しかったのだろう。その時、もっと話せばよかったが、彼女がノース・コーリアと言ったとたん、私自身も緊張・警戒してしまった。

なんであんなに緊張し、何に警戒したのか、今ではちっとも思い出せないが、一種のパブロフ反応かもしれない。日常生活で、さんざ物資不足やら、停電やらで苦労していたので、そんなことを話題にしたのだが、彼女はなんの不都合も感じないと、毎日が楽しいと言っていた。北朝鮮にいるよりはましな生活なのかしら、と全くプロトタイプな印象をもってしまったものだ。

拉致の問題を話題にできるわけもなく、すぐに彼女は北朝鮮外交団とともに去って行った。
接点がないだけに、近い北朝鮮がとても遠い国である。直接の情報など、何もない。
テレビや新聞の報道をみながら、報道量が多いわりに、画一的な内容なのがもどかしい。彼女の生の声をもう一度聞きたいものだ。

ブータンについての疑問

先日から、ブータン国王夫妻の国賓としての来日を機会に、ブータンで採用されているGNH(国民総幸福)という指数が話題を呼んだ。
国民総生産では低くても、国民総幸福指数は高いという。

幸福であるかどうかは、絶対的な感覚であり、相対的に比較するものではないから、ブータンの幸福度が高いことに異論をはさむ気持ちはない。と言いながら、こんな疑問を呈すること自体、異論をはさんでいるのだが。

ブータンの位置をみると、ヒマラヤ山脈の中にあり、国全体が山の中にある。産業はほとんどが農業である。
総人口は70万人、日本では中都市程度の規模である。そのくらいの人口で、一つの国として体裁を整えるというのは、どんなものなのだろう。

山間地となれば、東北や北海道に人口70万人を住まわせて、国家として成立させているようなものだけど、日本でも可能だろうか。

たとえば、ミニ国家といわれる国はいくつかある。モナコ、ヴァチカン、アンドラなどがそうだ。モナコは観光やとばく場の上がりで、所得税がないことでも知られている。ヴァチカンは、世界中のカトリック教徒からの献金がある。

ブータンは、観光も力をいれているようだが、主たる農業といえば、日本では自立ができず、国からの助成金でようやく成り立っているような産業だ。それだけで、国への税金が払えているのだろうか。

そして70万人の税金で、王家を維持するというのは、どうやってできるのだろうか。国家予算の中のどれだけが王家に使われているのだろう。

現国王は、1夫1婦でいかれるというけれど、これまでは4人まで王妃をもてたという国である。封建的な要素も十分残っていそうだ。
はたして、どれだけの幸福度なのか、住んでみなければわからないだろうし、幸福度が高いといわれても、トイレを考えただけで、やっぱり日本の、自宅がいいな、と思ってしまう。

私のジェンダー・バイヤス

数日前、小さな勉強会に出席した。そこで取り扱われた問題の一つがジェンダー・バイヤスについてであった。
ジェンダーとは、生物学的な性ではなく、社会的・文化的な性のことをいい、バイアスとは、両性に対する固定的な観念、あるいは偏見、性差別のことを言う。

私は九州の生まれである。だから、男尊女卑、長幼の順というのは厳しかった。その割にその観念が染みついていないと人は言うが、九州に帰ると、その感覚がよみがえってくる。
東京に出てきて、仕事であまり男女差をいうのを感じなかった。最初の仕事は、アルバイトで、賃金が低いのも、そのせいとわかっていたし、仕事自体、アルバイトと正社員の差別はあっても、男女差という印象はうけなかった。

もっとも長く働いた外国機関では、男女の差別というのはなく、どちらかといえば、女性は大事にされるところがあったので、そこでも男女差を感じなかった。差別があるとすれば、本国からの職員と、日本での現地職員の差がはてしもなく大きかった。

しかし、田舎に住むようになると、この男女差というのか、感覚の違いは大きい。村では、私が参加している活動の集まりでも、つれあいを同行すると、つれあいにまずあいさつされたり、スピーチを求められたりする。
年齢も加わって世慣れてきたので、自己主張をするのも控え目になり、つれあいの後ろに立つのでも別にいいけれど、つれあいと二人きりになると、「あれはなんだ」と文句を言い、つれあいが「まあまあ」となだめることもある。

ご主人、奥様、嫁、家内、といった表現にもひっかかる。ご主人は特にいやで、なるべく使わない。夫とかつれあいを使うが、知人はその言い方をからかって、「夫様によろしく」などと言う。奥様といわれれば、外様(そとさま)よ、と反論し、家内では、家外と言い変える。愚妻という表現だけは絶対許せず、賢妻ならいいとか、愚夫も使うべきと思っている。

つれあいあての手紙などに、令夫人と添えてあるのをみると、私はつけたしではない、と言いたいし、これがたとえば、私あての招待状で、つれあいもあわせて招かれる場合など、令夫になるのかしら、などとひねくれて言う。

こんなことは、実に表面的なことだが、この習慣的なことが体にも心にも染みついている。いつも申し訳ないなと思いながら、二人とも年金生活になり、家計費の分担は、つれあい7、私が3くらいである。これはジェンダーというより、受給年金額の差でもあるのだが、これをもって是としている私の深層心理は、男性が生活費を負担するものと考えていることによるようだ。

ジェンダーバイヤスについては、若い人たちには理解が進んでいるようだが、わが生活環境ではなかなかである。


減灯しませんか

12月になると、どこの町でイリュミネーションが始まったと、テレビで報道される。神戸や仙台、そして東京の表参道などが、豪華なイリュミネーションの代表格だ。

田舎の山の中に住んでいると、この間の満月周辺の月明かりがせいぜいで、人工的なイリュミネーションとは縁遠い生活をしている。しかし、東京に住んでいた時、毎年、有名なイリュミネーションを見ることは欠かさなかったので、明かりのない生活がさびしく思われる季節でもある。

しかし、きっと今年のイリュミネーションは自粛になるだろうと思っていた。たとえ電気消費量の少ないLEDに変えたとしても、やはり煌煌と輝くイリュミネーションは、電気の消費がそんなに少ないわけではあるまい。
この夏の計画停電にはとても不便を感じた。もし、これが冬におこるとなれば、夏の不便なんてものではすまない。3月の停電は、もう冬も終わりに近かったから、灯油のストーブ1つで耐えられたけれど、真冬になりつつある現在、マイナスの気温をそれでしのぐには、我々は年をとりすぎている。

発電状態が改善されたわけでもないだろうから、きっと、イリュミネーションはされないだろうと思っていた。あにはからんや、である。各所で実施されている。「元気を取り戻す」とか、「復興のシンボル」とか、いろいろ口実はつけているが、はたしてそうなのだろうか。

先日、フランスのニュースで、パリなど各都市の電飾について触れていた。費用の数字はメモしそこなったが、たとえば、有名なシャンゼリゼのイリュミネーションの費用が、その実施期間の売上と比べ、費用のほうが高くつくといった内容だった。一度、見直す時期ではないかという問いかけもあった。

今日のニュースでは、福島原発の事故に鑑み、あるいはエネルギーコストの高騰を考えて、来年7月1日より、都市の夜間のネオンサインを禁止するという決定がでたという。正確には午前1時から6時までの間であるが。
この措置で、約26万世帯の消費量に相当する電気が、節約できるのだそうだ。

フランスは、報道されるとおり、原子力発電が総発電量の75%から80%を占めている。現在のところ、電気を隣接する国々に売ることはあっても、買うことはない。十分足りているのだ。
それでもこういう措置をするのに、日本のこのノーテンキぶり、どうにかならないのだろうか。

シラク元フランス大統領有罪判決

昨日、シラク元大統領に、パリ市長時代、公金流用の罪で、執行猶予付き2年の判決がでたというニュースをインターネットで見た。

とうとうそうなったのか、とフランスの司法がきちんと動いたことに安心した。詳細も知らないのに、そんな感想を述べるのは、あぶないことなのだが、彼のパリ市長時代のやりたい放題は、よく耳にしていたからだ。

パリは以前、市町村の範囲に入らない特殊な行政体であった。市長は存在せず、市議会議長が市長の役割を果たすようになっていた。しかし、地方行政の改革があって、パリ市として、市民によって市長が選出される形になったとき、シラク氏はその地位についた。1977年3月から1995年5月まで、実に18年間市長の座にあったのだ。1995年5月、彼は大統領に選出された。

一つの国なら、18年も在職していれば、独裁者と呼ばれるだろう。しかし、選挙で選ばれ、多選の禁止がなければ、それは選挙民の意思でもある。
彼が市長のとき、その官房にcharge de missionと呼ばれる役職がやたらとできた。この役職は、日本語に訳しづらいのだが、担当官とでもいうのだろうか。
ある雑誌で読んだのだが、パリの市役所の職員なのに、シラクの選挙区在住の人が任命され、その仕事場も、そのまま選挙区在住のままである、つまりは、シラクが選挙区に帰った時の世話係である、とか、実際の仕事はせずに、シラクが党首をしていた政党の職員だったとか、いろんな話があった。

大統領任期中は、不逮捕特権があって、逮捕されることはない。しかし、この不逮捕特権というのも、大統領としての任務についてであって、市長時代の仕事についてではない、という論争があったりしていた。
2007年、大統領職を辞したあと、いつ逮捕されるのか、よく話題に出てはいたが、そのうち、彼の病気の方が先行して、逮捕のことも逃れられそうという話も聞いていた。

今回の執行猶予付き有罪判決は、彼の状態を考え、弁護団も控訴しないという。そのことを話していたのは、シラクの養女というアジア系の女性であった。
養女がいるというのは初耳だった。シラクには、日本に愛人がいるといううわさがもっぱらで、日本によくきていたのはそのためだ、とか、相撲好きとは別に、シラク話題の一つになっていた。愛人との間の子?なんてつい思ってしまった。

シラク氏は、1974年、首相として、迎賓館最初のゲストとして来日している。本来はポンピドー大統領が招かれていたのだが、病気のため、シラク氏が公賓として来日した。
ニューオータニに設けられたプレスルームで働いたが、つれあいもまた、日本側の接遇担当の一員として働いていたそうだ。

イラク戦争終結

オバマ大統領が、イラク戦争終結を宣言した。奇妙な戦争が終わった、のだろう。一方的に攻撃して、占領して、撤収する。アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争だ。

始めたのは、前大統領ブッシュだ。2003年、大量破壊兵器があるといって、航空母艦から戦闘機が飛び立って、攻撃目標を設定したところも、パソコンの画面でみせられて、爆弾炸裂といった、近代的戦争だった。

もう9年もたつから、その攻撃開始から、どのくらいで、ブッシュが勝利宣言をしたか、忘れてしまったが、それからが、近代的から、ヴェトナム戦争と同じようなアナログの戦争に変わってしまった。
サダト大統領が、隠れていた穴のなかから引き出された場面は今でも覚えているし、つい最近、リビアのカダフィ大佐で同じような場面が再現された。

この9年で、のべ150万人のアメリカ兵が動員され、4500人が死亡したという。そのかげで、イラクの国民の死亡者は12万人を超えているというが、あまりそれに触れられない。

つい先日12月8日は、太平洋戦争勃発の、真珠湾攻撃の日だった。もう70年になるが、いつまでも、宣戦布告をしないで、攻撃が始まったというので、日本が卑怯者と糾弾される日でもある。
イラク戦争は宣戦布告があったのだろうか。私は戦争をしらない子どものうちにはいる。生まれてこの方、日本が直接戦争したことを経験しない。
朝鮮戦争は、北朝鮮や中国が、突然、休戦ラインをこえて侵入した戦争ときいている。ヴェトナム戦争は、ヴェトナムの赤化をきらったアメリカがサイゴン政権を支持して介入した。

イラク戦争終結となれば、あとはアフガニスタンが残っている。ここも、何のための戦争やら、だんだんわけがわからなくなってきている。タリバン政権が諸悪の根源として、民主主義の敵として、西側諸国が協力している。

本当に正義の戦争なのか、勝手に初めて、勝手に終わる、イラクの人にとって、はたしてよかったのか、時が決めるのだろう。決まるまで、私は生きてはいないだろうが。

サンタクロースは独身の叔母

12月もこのころになると、今年はクリスマスプレゼント、どうしようかなと考える。もらえるかな?と思ったのは、40台まで、そのあとは、渡すこと相手や、プレゼントの品などを考えていた。

そして必ず思い出すことがある。小学生のころ、毎年、クリスマスプレゼントをもらっていた。両親は、大家族(11人)をかかえ、食べることで精一杯、とてもクリスマスプレゼントを買うだけの余裕はなかった。それでももらえていたのは、母の妹からだった。
叔母は若いころ、結核を患ったこともあり、独身だった。生協のようなところで、事務員として働いていた。母と仲がよかったのか、働いている場所がわが家に近かったためか、ときどき姿をみせていた。化粧っけもなく、いつも事務服みたいな服装で、地味そのものだった。
その叔母が、必ず年末には、わが家へのお歳暮のほか、姉や私へのクリスマスプレゼントを持参してくれていたのだ。

当時の彼女の収入は、そう高くなかったはずだ。弟の家族と同居していたが、余裕があったとは思えない。そんな生活なのに、プレゼントをしてくれていたのだ。

成長して、私も長く独身であった。叔母のように、甥や姪たちにプレゼントをしようと思ったが、私にはできなかった。自分の生活だけでいっぱいいっぱいなのだ。
叔母にとっては、私たちにプレゼントをして、喜ぶ顔を見るというのは、彼女にとっても喜びだったかもしれないが、そのためには、自分のためにお金を使わないという自己犠牲もあったはずだ。

今になって、感謝の念をもっても、叔母はなくなってしまった。何もお礼をしないままだ。かえって、悪いことをした記憶がある。外国旅行につれていったのだが、もちろん費用は各自もちだった。フランス語圏の国なので、叔母は私をたよりにしていた。それなのに、遺跡をよたよた歩く叔母に、もっときりっと姿勢をよくして、さっさと歩くのよ、と冷たくあたったのだ。
あとになって、叔母がパーキンソン病になり、もしかしたら、その初期だったのかも、と思い、後悔したものである。

去年のタイガーマスクではないが、プレゼントというのはうれしいものだ。このごろでは、年末の歳末助け合いや、社会鍋、あるいはいろいろなNPOに寄付することで、叔母への感謝を表している。


終活(2):形見分け

終活をすすめていく上で、身辺のものの整理がある。いつ、これをしたらいいのか、迷ってしまう。
フランスに住む代父・代母からは、行くたびに何かの形見をいただいて帰る。一度は、この家の中の何がほしいかとはっきり聞かれた。本当は、銀のカトラリー(ナイフやフォークのセット)がほしいのだけど、これは金目のものだから、娘と呼ばれていても、血がつながっていないのに、もらえるはずはないと、口にはださなかった。

サロンの壁にかかっているタピストリーが、写真写りがとてもいい。古いけれど、虫食いなどがあり、修理は不能だから、価値はないよ、と言われていた。このタピストリーなら、相続人から文句が出ることもあるまいと、「これがほしい」と言った。代父はいったんは承知したけれど、やっぱりだめだ、君の家にはかざるスペースがない、と拒否された。わが家を訪問したことがあり、家の様を知っているから、飾るだけの壁がないことを承知している。

結局、小さな風景画を、彼らの死後、受け取ることになり、絵の裏に私の名前が書き込まれた。そのほか、代母からは、金のブレスレットや、マリア様のペンダントなど、行くたびにかたみわけよ、と渡される。

私には貴金属など、ないに等しいけれど、母から受け継いだ骨董品(がらくた)、つれあいや私が世界を旅行して集めた民族的なもの、装飾品、なにかしら、棄てられないものがたくさんある。こんなに物が多くては、我々が死んだあと、処理に困るわよ、とつれあいと常々話している。

一度、骨董品の店でそんなことを話したら、鑑定にお伺いしますよ、という。買い取りもしてくれるらしい。頼んでみようか、とつれあいと話して、ちょっと待ってとなる。骨董品と信じているものが、実はがらくたで、一文の値打ちもない、と鑑定されたら、がっかりする。テレビで、なんとか鑑定団の番組で、そういう場面をいつも見ている。

だから必要な人にわけることにした。お茶道具などは、フランスでお茶を教えている方に、少しずつ送ることにしている。
漆器などは難物だ。若いひとたちは、あまり使いたがらない。いくつかのお重箱のセット、いまどき、なかなか使うオケージョンもなく、場所取りだからと、引き取りたがらない。ちょっとはげたりしていることもあるので、骨董店も買わないだろう。だからといって、処分はできない。

としていると、関西在住の叔母から、象彦のお重が、かたみわけで送ってきた。減らすより先に増えている。

終活(1)

このごろ、なんにつけても活をつけるのが流行している。終末、つまり死の準備をするのが、終活というらしい。つれあいが、「死ぬときに後悔すること」という本を持っていた。私にも読んだらと勧めてくれた。

私はあまり後悔しないことにしている。その本の中に多くの人が後悔する要素を書いてあるのだが、死ぬ時に後悔しても、どうしようもないでしょ、と思っている。
しかし、その中に会いたい人に会っておかなかったこと、という後悔があった。

ときどき、片道2時間をかけて前橋まで通う。一人で運転しているので、その間、何かしら考え事をするのだが、このごろ、「舞踏会の手帳」ではないが、昔、想いを寄せていた人たちのことをよく思い出す。彼らの2、3人にはもう一度会ってみたいと思っているのだ。

想いが残っているわけではない。ただ、自分の航跡をたどる意味で、大きくターニングポイントとなった人が、その後どうしているのか、知ってみたい気がするのだ。

小中学校時代、晩熟だったのか、初恋というものはなかった。しかし、当時、「新吾10番勝負」という東映の映画があったけれど、母と夢中になっていた。だから「しんご」という名前の先輩がいて、彼のことは気になっていた。今、香取慎吾?っているけどね、と友達が言うけれど、香取慎吾には興味はない。

高校時代はテニス部の先輩にあこがれた。大学時代は、文学部で女子優勢だったので、めぼしい男子はいず、憧れすら寄せる相手もいなかった。

さて、それからお見合いをして婚約にいたった男性がいる。結局、彼サイドの事情で、婚約は解消、私は失恋ということになった。この元婚約者には会ってみたい。私の人生は彼のせいで、大きく変わったのだ。
当時の事情を知っているひとたちは、この結婚をしなくてよかったと、慰めなり、励ましをしてくれたが、40年以上たっても、はたしてそういえるのか、毫程度の疑問をもっている。

マージャンができて、テニスの上手な人、が私の男性を好きになる基準だった。ばかばかしい基準である。
しかし、お天気のいい日はテニスをし、雨の日はマージャンで遊ぶという時、両方とも下手な私は、それが強いというだけで、魅かれるのだった。

そんな条件が整った人たちは、大勢いたが、その中で、あるオーヴァードクターがいて、とても素敵だった。テニスも上手、マージャンも強い、声もいい、それとなく意思表示をした。「リサーチフェローで、アメリカに行くことにしました」と、あっさりふられた。彼もアメリカにまだいるのだろうか、その後の消息は全くわからない。名前も思い出さない。

だんだん時代が新しくなると、まだ消息はつかめそうだが、それなりに具合が悪いという人もいる。
さあ、どこまで追ってみることにするか、と2時間のドライブで、逡巡している。往路で考え、復路でやっぱりやめた、と毎回繰り返しているこのごろだ。
帰宅をすれば、つれあいが待っていてくれる。つれあいも彼の「舞踏会の手帳」を持っているのだろうか。

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