若気のいたりか反抗か

このごろ、若いころの気持ちを振り返ることが多い。それだけ年をとった証拠だろうが。まあ、昔は本当に反抗的だった。とくに高校時代がそうだった。なんであれ、権威あるいは保守というのが大嫌いだった。とくに父親には反抗していたのだが、こわかったので、反抗自体は心中で行い、表面的には従っていた。

学校の先生、政治、なにもかもが唾棄すべき存在で、大人になったら、そういう存在を一掃しようと決心していた。理論的なものはゼロなのに、無政府主義:アナーキズムなんてことばが格好よくて、社会主義をこえて無政府主義が最高などと、無責任に口にしていたものだった。

ちょっと日和見的な部分もあるから、養ってくれている両親には、表面だって反抗はできず、もっぱら、その対象は同居して面倒をみてくれていた叔母だった。食事を作ってくれるから、後片づけなどはしなければならないとわかっていても、それを先に叔母が口にすると、「わかってる、勉強をすませてするから」などと口答えをし、挙句はしないままだったり、いい加減な反抗だった。

年配の婦人たちの、もったりした言い方も、いらいらしていた。そんな旧弊な生活をしているから、女性の地位が向上しないのだと、男尊女卑にみえる九州の生活がいやでいやでしょうがなかった。

オバマ大統領のいうチェンジ、変化を求めていたのもこのころだったが、自分で変化をつける気概はなかった。なんでもいいからイクサイティング、興奮するものがほしくて、失恋も自分を悲劇の主人公にする題材のひとつだったし、経済的に恵まれないのも、逆境から抜け出すストーリーを作って、自分を救っていた。

そんな変化を求める気持ちから、いろんなことにトライしたし、刺激をもとめて外国へも出かけた。外国は本当に面白かった。歴史や地理で学んだことが目の前にある、とか、外国人との意思の疎通ができると、なにかよほどのことを成し遂げたように感激したものだった。

いつのまにか、変化のない生活に耐えられるようになった。そして、変化のない日常をありがたいと思うようになった。政治でもそうだ。戦後続いた保守政権にうんざりし、民主党が政権交代をしたとき、その振り子の幅が許容範囲だったから、久しぶりにイクサイトした。

高校生の時代なら、TPPも絶対に加盟賛成派になっただろう。TPPに参加して、世の中が少し混乱しても、それを面白がるだろう。今や、静観するにすぎない。大きな変化があるのは困るなと思うのだ。変化に応じる能力を欠いてきたからだ。現在の生活が恵まれているのかもしれない。あるいは価値基準が変わって、小さなことに幸せをみつける能力がついたからかもしれない。

でも、このごろ、ちょっと突っ張っていた若い日々が懐かしく、あの反抗心を取り戻したくなっている。そして対象とするものは?

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