11月8日、従姉の初命日

今日は立冬だそうだ。昨日に比べ、気温がずいぶん低くなっている。昨年の今日、従姉が死んだ。病死であるが、その知らせは10日ほどあとになって受けたので、葬儀にも参列していないし、どこにお墓があるかもしらない。

4歳上の従姉は、父の妹の一人娘で、小さいころ、10数年間、一緒に暮らした。だから姉妹というような感じの存在だった。わが家はその当時、ほとんどがそうであったように、大家族でくらしていた。父と母、祖母、大叔母、伯母と叔母にその子である従姉、母の違う姉、それに姉と私に弟、合計11人の家族だった。いつからそんな大家族になったのやら、さだかな記憶はないが、最初からではなかった。

従姉とその母である叔母は、あるときから一緒に暮らし始めたような気がする。叔母は戦争未亡人といいたいが、夫が結核にかかり、戦地からもどってきた。だれの話かしらないが、祖母が看病で苦労するのがかわいそうと、実家に戻るように指図したらしい。娘をつれて戻ってきた。当時は、離婚しても婚家の姓を名乗ることはすくなく、旧姓に戻ったものだ。ただし、従姉は一人娘だったので、婚家の姓を維持し、わが家で一人だけ、名字が違っていた。

11人の大家族ながら、男は父と一番年下の弟だけという女系家族で、母の違う兄は、大学から就職と、家を離れていたので、兄がいるとは知らなかったほどである。女としては一番年下になる私は、便利に使われる存在だった。シンデレラみたいなものである。常にからかいの対象で、「あなたはナツマメ畑に捨てられていたのを、かわいそうだと拾ってきたんだって」と言われ、だから誰とも似ていず(ご近所では、一目でこの家の娘とわかるといわれていたようだ)、いつの日か、本当の両親が、キャディラックに乗って、「探したのよ」と迎えにきてくれるのを待っていた。

夕方の買い物に出されるのも私、掃除わすれの個所をあわてて掃除しなさいと言われるのも私、と今でいういじめ(姉たちにいわせると、年少者がして当然)にあっている中で、従姉はやさしかった。
その従姉も、高校を卒業すると、東京に働きに出、それからの人生で交差することはあまりなかった。

昭和20年代、離婚したり、夫に死に別れした女性は、実家にもどるケースが多かった。叔母も結局、従姉が結婚し、子どもが生まれるころに、従姉とすむために実家を離れたような記憶がある。子どもなのに、変な潔癖をもっていた私は、病気の夫をおいて実家に戻ってきた叔母を許せず、大きくなるにしたがって、意地悪をした記憶がある。男性と親しくしたりすると、邪魔をしたり、嫌味をいったりしたものだ。

今なら、30代、40代を実家の掛り人としてすごす心細さ、女ざかりであること、などわかってあげられるのだが、なんせ古い時代、異常なまでに潔癖だった。そんな意地悪な私なのに、高校時代、両親が仕事の関係で別の場所にいき、弟は同行したが、私は高校ということもあって、実家に残った。叔母は、母かわりに、ご飯作りからすべてやってくれていたのだ。お弁当がお粗末だ、夕食のおかずが気に入らない、いろいろ文句をいった。叔母は料理上手で、少ないお金でおいしい料理を作ってくれていたのだが、それも今だからわかるのである。

大学は実家を離れていたので、叔母とはそんな中で分かれてしまったようだ。従姉も嫁ぎ先が遠隔地だったので、会うこともなかった。
その後、叔母も従姉もくわしい事情はしらないが、お金のことで失敗したりで、近づかない方がいいといった、親戚のうわさ、それよりもなによりも、自分自身が生活していくことに必死で、無音のままで数十年がすぎてしまった。

叔母が亡くなったのはもう数年前になり、その時も知らせはうけたが、遠隔地でもあり、これまで付き合いもなかったことで、つれあいの同意も得られなかったので、葬儀に出席することもなかった。その後、何年かのちに、従姉が病気であると知り、なぜか、その時、姉2人とそろってお見舞いにいこうと盛り上がった。

一緒にくらした年数の数倍の年数を、会わずにすごしてしまった。兄弟姉妹ならそんな冷たいことはしなかっただろうに、という悔悟の念が込み上げてきた。叔母によく似ていたから、叔母へのすまなさもこみあげてきたのだ。

そして昨年、従姉は長い入院生活のあと亡くなった。糖尿を患い、のどを手術していたので、会話はできず、交流とて淡いものであったが、その死は重く私の心に残っている。
現在の仕事の一環で、いろんな家族をみているが、あの当時の家族のありかたが、従姉にとってどうだったのか、幸せであったろうか。

今日は一日、そのことを考え、今、追悼の火をともしている。

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