独裁者の最後

昨夜から今朝にかけて、とうとうリビアのカダフィ大佐が死亡した(殺害された)ニュースが流されていた。42年間、リビアを支配したのだという。

「アラブの春」といわれる去年12月からの動き、リビアでピークになったのかもしれない。チュニジア、エジプト、そしてリビアのトップが追われたり、殺されたりした。この動きが、シリア、イエーメン、バーレンあたりまで広がるのか、期待感は大きいが、まだわからない。

カダフィは1969年、クーデタをおこして、指導者となった。青年将校であったカダフィは、その後昇進した大佐の階級を生涯使ったものの、朝日新聞によると、側近は、「同志、大革命の指導者、アフリカ連合議長、アフリカ諸王の中の王」と呼んでいたそうである。

この呼び方で、古い記憶がよみがえった。中央アフリカ共和国のボカサである。1966年に政権を掌握すると、1972年には終身大統領、1976年には皇帝となった。1979年にクーデタでその地位を追われるが、猿芝居のような皇帝即位式の写真が思い出されるのだ。彼はナポレオンにあこがれていたという。ナポレオンもどきの戴冠式を行ったが、それには各国の代表者も出席していた。

朝日新聞には、アラブの世界に独裁者が多いとしている。まずは英雄、救国の士として出現し、長期の支配から強権的な独裁者になるパターンが多い。その例として、エジプトではナセル、サダト、ムバラクと3代続き、イラクではフセイン、パレスチナではアラファト、シリアのアサドなどをあげている。
独裁者はアラブの専売品ではない。過去にはなるが、アフリカにも先述のボカサのほか、アミン・ダダ(ウガンダ)、モブツ(ザイール)などがいる。

独裁政権支配期間の長さでは、カダフィの42年は、ナセル大統領の44年に次ぐ長さである。モブツは32年であった。
独裁長期政権は、強権的、腐敗、縁故主義、秘密警察、虐殺など、多くの問題を発生させる。暗い、悲惨な状態に国家を落としてしまう。
私たちがいたコンゴ民主共和国がそうだった。旧名ザイール、モブツが32年大統領として在任していたが、腐敗極まっており、地下資源は豊富な国なのに、最貧国のトップとなっていた。外国からの援助と同額が、モブツの海外資産となっているという話もあった。

1997年、病気で国を離れたモブツは、フランスに滞在していたが、反乱がおこり、そのリーダーのカビラがモブツの政権を倒した。モブツは結局、モロッコに亡命し、そこで病死した。

殺された独裁者は、その数ほど多くはない。イラクのフセインは逃亡中、つかまって結局は処刑されたが、一応裁判を受けている。モブツにしても亡命後、病死である。

人間の命に差があるのか、ないのか、一言では言えない。私はないと思いたい。何十万人の虐殺をした独裁者、自分の命がそんなに大切なものなのか、と本人にきいてみたい。

それにしても、時代は異なるが、フランスのナポレオンは、あれだけの戦争をし、戦死者を出したにも関わらず、敗北ののち、最初はエルバ島、そして最終的にはセント・ヘレナ島に流刑になり、生命そのものは奪われていない。フランス大革命時には、ギロチンによる死刑で、ルイ16世、妻のマリー・アントワネットも処刑されたのである。

日本のリーダーたちは、よく「命を賭して」というけれど、本当の命を賭けているだろうか。

初めてのこと

つれあいが生体検査のため1週間入院した。入院当日、オリエンテーションみたいに、看護士さんがいろいろ説明してくれる。
看護学校の学生さんが、見習いで看護士さんについてきている。実習の対象としたいというリクエスト、若いかわいい実習生に、否はない。看護生だけではない。医学部の学生も実習として、見学させてほしいという。これからお医者様になろうという学生の手伝いができるのはうれしいことだ。

担当医はこれまでかかっていたドクターではなく、別のドクターがあたられることになった。年齢的にも新人というわけではないだろうが、初めてお会いするので、どれだけの経験をつまれているのかわからない。
「この種の手術は、もう何例もしています」という説明にほっとした。

新人の養成に協力するのは惜しまないが、手術を初めてする、というドクターにはあたりたくない。看護婦さんでも、血液をとったり、点滴の針を通すといったことをするのに、経験のない新人にあたって、なかなか通らないということもあったりする。お医者様の場合、手術の経験というのは、どうやって積んでいくのだろう。どんなに小さな手術でも、人間の体は複雑だ。血管や神経を傷つけて、障害をもたらすこともあり得ないわけではない。

メスをいれる、切開する、いろんな工程があるだろうが、少しずつ部分的に経験していくのだろうか。熟練した名医への道は長いものだろう。

大学病院への入院は、こちらにとっても初体験、手術も終わり、数日を経て、退院のはこびとなった。

退院の翌日、私は東京で会合があり、1日、つれあいを残していくことになった。退院直後の病人を一人残していくなんて、冷たいと評した友人がいた。これが私が病人で、つれあいが仕事で離れるとなると、冷たいと言われるのだろうか。退院直後とはいえ、つれあいは、寝ていなければならないわけでもなく、普通に生活できる。その辺の兼ね合いをつけて、一人残していくことにしたのだ。

生体検査の結果がわかれば、本格的な治療が始まる。次はどんなお医者様や看護士さんにあたるのだろうか。こちらは入院・治療については新人だから、よろしくお願いします。



流行遅れの服装

4カ月ぶりに東京へ行った。前回は7月だから、夏の盛り、軽装ですんだが、今回は秋、ある程度のコンビネーションになる。 出発地のわが家は寒いし、朝が早いので、下はパンタロン(今はパンツと言うそうだ)、コットンのブラウスにジャケットを羽織った。

東京の日比谷界隈を歩くと、なんだか違和感を感じる。浮き上がっているような感じがする。私のタイプの服装がいないのだ。みなさん、ゆったりドレープのあるものや、生地そのものがやわらかい。ショーウインドウのマヌカンや飾ってある服装も、なんだかタイプが異なっている。

そうか、私の服装が今風ではないのだ、ということに気付いた。そういえば、パンタロンは別として、ブラウスにジャケットは買って15年はたっている。流行はかわる。田舎暮らしですっかり流行というものを無視していた。普段着と農作業用の服だけで済む毎日、外出着というものに気がまわらなくなっていた。

日本はファッションが変わるのが早い。それにみんなが合わせていく。フランスで滞在するパリ郊外のヌイイでは、高齢者が多いところだが、本当に保守的なところだ。50年もたっているようなオールド・ファッションのツイードのスーツが今も通用する。襟元や袖口にヴェルヴェットがついた、その昔にはやったスーツだ。皮のものもある。

そこでは15年などはまだア・ラ・モードといえる。古いものを大事にの精神だ。いいものを大切に、長く使う。ブルジョワの精神らしい。
私はブルジョワではなく、どちらかといえば労働者階級だが、古いものを大事にするというのでは、同じだなと思っている。

さて、東京でニューファッションを求めようかと思ったが、どうも今のスタイルは似合わなそうだ。あきらめてオールドファッションのままでこの冬を過ごすか。


ただのものを貰わない

どのくらい前になるだろうか、「女性の品格」という本が出版された。そのなかに品格ある女性として、してはならないことに、「ただのものをもらわない」というのがあった。
それが記載されているページがすぐに開いてしまう、とその本を次に読んだ娘が笑っていた。

この「ただのものを貰わない」は、目からうろこの表現だった。このころは、景品をもらったり、ポイントをためたり、企業の試供品に応募したりするのが流行していた。なんでもフリーのものをゲットする、というような表現がはやっていた。生活防衛の手段としてもてはやされていた。

そこまでアクティヴにしなくても、駅頭で配られるティッシュペーパーは、すかさずいただいてくるというような生活をしていた。ハンドバッグの中にティッシュが入っていなくても、駅でもらえるわ、と気楽なものだった。配る人によっては、めんどうとばかり、2つ、3つを一緒に配っている。一度に3つももらうと、ラッキーと思ったものだ。

それでいて、何かこんなのおかしい?とも思っていた。そこに「ただの物を貰わない」がでてきたので、「その通りだ」と納得した次第である。
「他人のふんどしで勝負する」という表現もあるが、自分の財布から買ったものは大事にする。ただのティッシュは一度に数枚使ってもなんともない。他人のふんどしなら、破れようと、汚くなろうと平気の平左だ。無責任にもなれる。

ただのものを貰って、使わずにごろごろしているものもある。だから、タダだから手を出すということはしないと決心した。
田舎に住むと、駅頭のティッシュ配りもなく、すぐにティッシュの在庫がなくなった。つれあいが悲鳴をあげた。外出するときに困るというのだ。

現役でもなく、ほとんど隠居状態であれば、職業上の「ただのもの」を得ることもない。だから、「もらわない」というのはやさしいようだが、ここでは野菜という、魅力ある品がある。

今日も、図書館を利用している地元の高校で、キャベツをみつけた。「どうぞお持ちください」という言葉に甘えて、つい2個ほど、いただいてしまった。
なかなか、「品格ある女性」にはなりきれないでいる。


家族ぐるみのお付き合い

東京を離れてもう7年がたつ。すっかり東京の友人たちとも疎遠になってしまった。以前であれば、季節ごとになにかしら会食や会合があったものだが、遠く離れて、そんな機会もなくなってしまった。

それにしても、家族ぐるみのお付き合いというものがなくなってしまった。先日、ご近所にお泊まり客があった。昔のママ友だという。もう30年からのお付き合いとか。福島県の原発による避難を余儀なくされている町にお住まいだった。今は、東京の自前のマンションに避難中とのことだ。

こうして、夫婦そろって、家庭に招かれて泊まるというようなことが久しくなくなってきたように思う。ここは別荘地だから、お泊まり客はよくあるが、これが東京であれば、家自体が狭いから、お泊めするということはできないだろう。

小さい時、地方在住だったから、よく泊まり客はあった。当時、ホテルと呼べるものはなく、旅館だったが、旅館に泊まるというのは、ほとんど考えられなかった。どんなお知り合いやら、小さい子どもにはわからないが、親戚の誰とかさんの係累だとか、父親の大学時代の友人だとか、主としておじさんだったが、よく来客があり、そのたびに酒のでる食事で、父が酔っぱらうのがいやだった。

このごろでは、電話が個人所有になり、どんな交友関係があるのやら、夫婦の中でもわからないようだ。わが家は経済的理由もあるが、携帯は1台で、発信専用となっている。共有だから、履歴をみれば、だれと交信したのか、一目瞭然だ。

それでも、つれあいの友人にどんな人がいるのか、知らない。年齢が多くなると、小学校やら、中学校、高校、大学、社会人になって、趣味の友、全てを説明するのがめんどうだ。古い友人が、突然、手紙やメールを寄せてくることがある。手紙は毎日の配達をお互い楽しみでチェックしているので、見せたりできる。メールとなると、わざわざだから、黙っていることが多い。

家族ぐるみといえば、当事者同士、その親、子ども、そして私たちの年齢になると孫まで、情報に通じていることになる。ゼロとはいわないが、本当に少なくなってしまった。こんなに個人化してしまった世の中、やっぱりさびしい。

飲み物の自動販売機

外で自由に飲み物を飲むことができるようになったのは、いつ頃からだろうか。20代のころ、友人に帰国子女がいた。英語風の日本語を少し話し、会話は英語の方が多かった。挙措はまったくのアメリカ人風であった。
片手に缶入りのコーヒー、片手に煙草をもって、歩いたり、電車にのったりしていた。

それまで、私が受けた教育あるいはしつけは、立ち食い、立ち飲みは行儀が悪いというものだった。飲み物を飲むのは、ちゃんと座る場所のあるところ、大体は食事の場や、喫茶店といった、飲み物を提供する場でなければならなかった。

ところが、海外にいけば、立ち食い、立ち飲みは普通のことだ。フランスでは、パンやさんで買ったバゲットのサンドイッチをかじりながら歩いている人もいる。お菓子屋さんでは、エクレアなど1個買いをして、すぐに食べる。これまで、ケーキなどは、家に持ち帰り、紅茶などをいれて食べるもので、歩きながら食べるなんて、常識がくつがえった心境だった。

でも日本に帰れば、まだまだ行儀が悪いとみられていた。だから、帰国子女と一緒にいるときは、英語で話しながら、私は日本の常識にとらわれないニュータイプだからとばかり、彼女と同じように、片手に飲み物、片手に煙草などをもち、街中を闊歩したものだった。

行儀が悪いというその意識が古いものに思えてしかたなかった。その行為をとめようとするのは、古い権威主義の表れで、新しい、若い人々には、そういう規範を破る権利があるものだと。

今や、いたるところに自販機があり、その場でも、歩きながらでも、ほとんどの人は飲み物を自分でもっている。熱中症予防とか、なにかとすぐに飲み物をとることが奨励されている。
医学的にはそうなのだろうが、年齢を重ねると、時や所を選ばずに、のど仏をみせながら飲んでいる様子をみると、みよいものではないなと思ってしまう。

やっぱり、きちんと座って、コップや湯飲み茶わんなどを使って、いただくこと、そんな姿勢のほうがいい。礼儀作法がだんだん消えていくような印象のこのごろ、歩きたばこを禁止する区などもできたけれど、立ち飲み禁止もしてはどうだろうか。

年金受給開始が68歳?

年金を受け取る年齢が68歳になるかも、といったニュースが今週は話題になっている。もう受給しているので、関係ないとはいえ、68歳となれば、まだ受け取れていないのね、とつれあいに言った。つれあいは十分、受給年齢に到達しているから、彼一人の年金で生活をまかなうことになる。ちょっときついね、とつれあいも言う。

これから受給しようという年齢層にとって、たとえば、我々の子どもの年齢40代あたりになると、文句をつけたくなる気分であることはよくわかる。

これが既得権者の意見かもしれないが、昔を考えると、年金制度ができているということだけでもありがたいのではないだろうか。
私たちの年齢層の親の時代は、年金などの制度が確立しておらず、老後というのは、家族の中で助け合ってくらしていた。たとえば、私が成長した家は、大家族だった。祖母、大叔母と2人の老人がいて、叔母が連れ子付きで離婚して戻ってきていた。彼女らの収入はなかったように思う。父の収入で、家族全員が生活していた。

どの時代でも、自分の時代が最も犠牲になると言いがちだ。しかし、私よりちょっと上の年代が一番大変だったのではないかと思っている。兄などは、大学の費用もアルバイトと奨学資金で賄い、親からの送金はほとんどなかったように聞いている。それでいて、就職すると同時に、親元への送金をしている。その送金は、ふた親が死亡するまで続いていた。それは、他の兄弟も同様であったけれど。

今の40代、50代の人たちは、親の年代が年金をたっぷりもらっている、自分たちはもらえないかもしれないと不平をもらすけれど、そのおかげで親への生活費負担や送金をしなくてすんでいることに気づいているだろうか。
かえって、孫たちへのお祝いやら、何かと親の財布を期待している部分もありそうだ。

昔は親への送金は当然のことだったし、老後は子を頼って生活するものだった。親への送金をしなくてもすむ、という間接的恩恵にも思いを致して、その分を貯蓄にまわし、それで退職年齢と年金受給開始のギャップをうめる算段をしてほしい。

年金で老後をという考えがいつから定着したのやら、さだかに覚えていないけれど、また不安定になってきた昨今、自助努力が必要かもしれない。こういうことを書くと、社会保障を充実させることを妨げると言われそうだが、妨げるものでもない。人をあてにせず、自分で自分の分を準備するだけのことだ。その準備が膨大なものにならなくてすむのが、年金制度があるおかげなのだ。

結局、現在受給している我々も、この金額が、過去の経済右肩上がり時代の恩恵とすれば、現況に合わせたものになる、つまりは減額を受忍すべきなのかもしれない。





知らない事が多すぎる

タイで大雨が降っており、アユタヤあたりの被害がすごいという。そしてそこに進出している日本企業が、多大の被害にあっているとか。

タイにはずっと昔に一度立ち寄ったことがある。最初のヨーロッパ旅行の帰り、南回りで帰ったのだが、タイに知人がいたので、途中下車したのだ。知人はブリジストンで働いていた。もう40年も前になるが、当時からブリジストンはタイに工場を建設していた。首都バンコクではあったけれど。

今回の洪水ニュースを見ていると、トヨタ自動車、日産自動車、いすゞ自動車、三菱自動車、マツダ、があり、ニコン、パイオニア、キャノン、ソニー、の超大手企業が軒並み進出していることがわかった。そのほか、以前のテレビ放送で、タイには食品加工業が多く工場をもっていることもみている。

これだけの大企業が、単独であるはずがない。新聞には載らない中小の系列部品メーカーもある。こうずいの直接の被害を受けた日系企業だけで、13日現在で300社程度あるという。こんなに進出しているなんて、日本企業にとって、タイは九州のようなものなのだろうか。

それにしても、今回の洪水がなければ、こんなに多数の企業がタイにあるなんて、知らなかった。無知にもほどがある。実業の世界に身を投じたこともなければ、日経新聞の購読もしていない。なかなか情報を得ることができない。

原発のこともそうだ。一部の人々には常識のことが、一般人には通じていない。メディアの情報も偏っている。洪水のように、どうでもいいことに近い事実を何度も何度も報道するかと思えば、重大な情報は知らせてくれない。政府発表ばかりに偏重した情報、受け止める方も、民間発の情報を軽んじる傾向にはあるのだが。

除染ということで、家や道路、いろいろなところを洗っているけれど、その水の行方はどうなるのだろうか。

知らないことが多すぎて、このごろ混乱気味である。

誤解と既得権

タイトルの誤解と既得権に何の関連性もないのだけれど、これまで書いた文章のなかに誤解を招くような部分があったという指摘をうけたので、ちょっと付け加えておきたい。

一つは昨日書いた「行きたいところ」で、今、行けない事情として、つれあいの健康状態に触れた。昨年は二人揃ってフランス3週間の旅行を楽しんだのだが、今年は春あたりから体調不調を訴えることが増えたのだ。といっても日常に不都合はなく、今年も畑仕事をしてくれた。
 このところ、大学病院で検診を受けているが、治療していただければ、体調も戻り、二人揃っての旅行なり、留守番なりが可能になるものと思っている。

次は、後期高齢者の医療費だ。大学病院での費用が70円ですんだということを書いていたら、そんなに医療費が安いのかと言われた。とんでもない。国民健康保険料は、年金からけっこうな高額が、ばっちり引かれている。2か月で3万円以上は引かれている。年金から、このほか、介護保険料、個人住民税も引かれ、予定している年金金額そのものは受け取れないシステムだ。

年金自体も減額されるような話もあるが、それより前に、いろいろな課金が強制的に引かれている。否応なしだ。

既得権というのは、それを享受している立場の人間にはわからないものだ。それが長い期間にわたればわたるほど、既得権という意識はなく、自然発生的な権利と受け止めてしまう。
ギリシャの国民も、長く55歳から年金受給を開始できていたとすれば、その財源がなんであろうと、それは当然の権利で、諸外国から文句が出る筋合いのものではないと思っているのだろう。

私たちの既得権というのは何だろうか。年金を受給している。これにしても、幾多の改革を経て、厚生年金部分は60歳からだが、国民年金部分は65歳まで待たねばならなかった。この制度は、始まった当時は、国民年金の受給を遅らせられたと思っていたのだが、今では既得権になっているようだ。いまや68歳になるかもしれないからだ。

年齢を重ねると、受け取るものが既得権になりがちだ。しかし、その濫用といわれると、違和感がある。国の制度として議論を重ねた結果のことなのだろうに、と思うのだ。既得権うんぬんと責める場合には、それが発生した当時の状況説明もしてほしい。そしてそれが現状とどのようにそぐわなくなったかを分析して、どう訂正すべきか、きちんと説明してくれないと、受益者として、納得いかない。

年金と税の一体改革がどうしても必要で、その改革のために、年金受給者も身を切る覚悟(減額)が必要ということなら、それが納得できるものなら、身を切り、血を少しは流す覚悟はあるのだが。

やり残したことの数々

人生後半期に入ると、やりたかったのにやれなかったことなどをリストアップすることがある。また行きたかったのに行けなかったところもあげている。
やりたかったのにやれなかったこと:スポーツでは乗馬、スキー、ダイビング(シュノーケリングも含む)、スカイダイビング、セーリング、などがある。これらのスポーツのうち、乗馬、スキー、シュノーケリング、ヨットなど、全然縁がなかったわけではない。1回はトライしたことがある。そして楽しかった。もっとやってみたかった。

しかし、いかんせん、それぞれ費用のかかるスポーツだった。そのうち、お金に余裕ができたら、と思っていたが、お金はできず、暇もなく、今日にいたった。シュノーケリングなど、どこでしたかといえば、南太平洋のヴァヌアツ共和国である。友人を訪ねてその島にいった。そこに日本人の世界一周をしているヨットが寄港し、ヴァヌアツのきれいな海で、一緒にシュノーケリングを楽しんだ。私は初めて、ヨットのクルーが付き添ってくれて、熱帯魚がうようよ泳いでる海を見ることができた。あまりのきれいさに、世界中の海をみてみたいと思ったのだ。

ヨットも数回、三浦海岸で乗せてもらったが、泳ぎが苦手で、自分から率先してというのではなく、お誘いがあれば、という消極的態度をとっていては、そうそう誘ってくれるものではなく、すぐに体験も終わった。ヨットで世界一周などは、夢のまた夢におわった。

現在は寒冷地に住み、スキーも冬場、好きなだけできる環境にあるが、膝が悪くなり、転んだら立ち上がれないのではスキーはできない。またねんざやけががこわいから、年よりの冷や水として行かない。

スカイダイビングなどは、若いうちはよかっただろうが、今や高所恐怖症で、論外のスポーツになってしまった。

行きたかったところ:アンコールワット、南極、ヴィクトリアフォール、アイスランド、シリア、タスマニア、マダガスカル、コモロ、エチオピア、など。
これは問題がない。条件さえ整えれば、いつでも行ける。ただ条件が整わないのが難だ。たとえば、つれあいの健康状態とか。もっと以前に強行して行っておけばよかった、と後悔している。

若い方たち、やりたいこと、行きたいところ、お金がなくても少し無理をしてでもやっておいたほうがいいですよ。後悔先に立たず。

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