「こうのとりのゆりかご」を考える

9月27日付の朝日新聞に熊本の慈恵病院が設けた「こうのとりのゆりかご」についてオピニオン欄に、病院の看護部長の話が載っていた。

「ゆりかご」は2007年5月に設置されたのだという。そして、今年の3月までに75人を預かったそうだ。4年間で75人、年平均16人となる。そのほかにも年に約500件の相談があるという。

「ゆりかご」設置については、賛否両論がある。否の方では、「親の責任放棄を助長する」とか、「置き去りを許すのか」といったものがあるという。
賛というより、病院側のレゾン・デートルとして、「まずは小さな命を救おう。その後、どうしたらその子を幸せに育てられるか、知恵を絞ればいいじゃないですか」「匿名でもいいというからこそ、追いつめられた人たちがすがれるのです」と説明している。

子どもの誕生が複雑になっている。生殖技術の発達から、体外受精も可能だし、代理母も外国で実施されている。親子関係も、特に母親を決めるのに、出産をしたことを条件づけている。卵子の持ち主ではなく、出産に重きを置いているのだ。だから、野田聖子氏のように、卵子が別の女性のものであることを公表していても、彼女が出産したのだから、法律上はしっかり母親になれる。

生まれてからも複雑だ。生まれてすぐにこうして「ゆりかご」にあずけれらる子もあれば、実の両親に育てられながら、虐待やネグレクトされる子もいる。
特別養子や里親・里子の制度もあるが、いろいろ欠点もでている。

生命倫理のこと、生殖技術のこと、社会を構成する人間の問題、東日本大震災や原発問題など、喫緊の問題もあるが、こういった基本の基本をはやく方向性を決めなければ、しわ寄せは原発の比ではないように思う。

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