敬老の日によせて

65歳以上は高齢者に分類される。この分類にはいって1年たつ。高齢者であることを自覚するような、しないような、はっきりしない年頃だ。

自覚するのは体力の減退だ。この1年で、立ったり座ったりがおっくうになった。どっこいしょ、よっこらしょ、この掛け声は動くたびにでる。
座卓をさけ、テーブルにしているのに、椅子から立つとき、テーブルに手をついてしまう。行儀が悪いと言われていたことだ。固有名詞がでてこないどころか、普通名詞も即座にでてこない。アルツハイマー症の症状かしらと不安になる。

自覚しないのは、あまりに自分より高齢の人が多くて、まだ若い人の部類にいれられることがあるからだ。高齢者のグループの中では、ひよっこらしい。

「少子高齢化時代」と言われると、肩身がせまくなってくる。私は結婚が遅かったので、子どもはいない。世代交代が行われるためには、ひと組の夫婦から2,1以上の子どもがいなければならないとか。このごろは結婚もしないから、もしかしたら、それは女性1人についての数字かもしれない。

高齢者の年金は、現役世代が背負っている、などの表現でも傷つく。子どもを一人ももたないと、年金を受け取る資格もないのでは?と思ってしまうのだ。いやいや、親の年金はしっかり負担してきた、年金どころか、別途生活費も負担してきたではないか、と言い訳したいが、後の世代に自分の子どもがいないとなると、赤の他人のお世話になっているようで、肩身が狭い。

そんなに高額ではないが、税金は払わなければならないものは、きちんと払ってきた。なんで、子どもがそんなにもてはやされるの?と友人に聞いた。子どもは学校やら、いろんな経費がかかって、税金の負担も、高齢者以上に大きいのでは?という疑問からだ。友人曰く、子どもにはお金を使うからね、経済が動くのだよ。

そうか、そういえば、私はこの数年、衣服にお金を使っていない。体型はおおきくかわり、ぷっくりおなかで、ウェスト部分がはいらないスカートやパンツがあるけれど、着られるものだけですませている。死ぬまでにあと何年あるかはしらないが、もしかしたら、もう買わないでいいかもね、と言いつつ、20年、ものによっては30年前のものも着ている。

子どもはそうはいかない。成長するのだから、必要なものも1年ごとに変わるだろう。上からのお下がりもあるかもしれないが、なにかしら新調するとすれば、お金は動く。
まあ、若い世代のためにお金を使えば同じことよ、と言われつつ、金さん、銀さんではないが、老後のために、つつましい生活は続けざるを得ない。

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