泥鰌で悪かったわね

新しい野田内閣発足、野田首相本人は、内閣のネイミングはしないというが、みなさん「泥鰌内閣」と呼んでいる。野田氏が、代表選挙のスピーチで、あいだみつをの「どじょうは金魚になれない」とかいう言葉を引用されたからだ。

私はこの種のことばがこのごろ嫌いになった。大震災後の公共広告機構が流した金子みすずの詩も、最後のフレーズの意味がわからないし、あまり好きではない詩だったので、繰り返し聞かされてうんざりしていた。金子みすずの詩そのものは、言葉のやわらかさや郷愁をよぶものなど、大好きなものが多いのだが。

あいだみつをはもともとあまり好きではない。なにか善意の押し売りを感じてしまうのだ。昔は武者小路実篤だった。「仲良きことは美しい哉」とちょっとひねくれた字と、ナスとカボチャみたいな静物の絵があって、それはそうだけれど、と、そんな色紙が飾ってある家は、なるべく避けていた。

このごろ、おっしゃることは正しいというような歌も多い。「世界に一つの花」もそうだし、「トイレの神様」もその種類にはいる。

どじょうと金魚、別物なんだから、一緒にしないで、と言いたい。グッピーと金魚なら、観賞用魚で同種とみて、比較されていもいいいけれど。もしかしたら、金魚は泥鰌になりたがっているかもしれないし、泥鰌は食べられるのがいやさに、金魚に限らず観賞用の魚になりたがっているかもしれない。

人間に勝手にランク付けされたくない。どっちかといえば、ナマズという気もしないではない野田氏だし、あいだみつをの詩を言いだしたという興石氏こそ泥鰌にみえる。
泥鰌の平均寿命をしらないが、泥鰌談義をしているうちに、内閣の生命が終わらないように、またマスコミも、毒にも薬にもならないキャッチフレーズを扱うのを、いい加減にしてほしい。

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