サントン人形

我が家の聖家族(クレーシュ)はサントン人形で構成されている。サントン人形とは、プロヴァンスの特産品で、かたく焼いた粘土の人形に彩色が施されている。

クリスマスの聖家族は小さいものが多い。マリア様、ヨゼフ様、飼い葉おけのイエズス様、そのほか、東方の3博士、それに村人たち、馬、牛、ラクダ、鶏、アヒル、羊といった動物たち、がクレーシュを構成する。

そのほか、プロヴァンスの伝統的な服装や職業のサントン人形もある。女は働き者、男は怠け者に作られていることが多い。

これらのサントン人形がクレーシュを構成するようになったのは、中世時代からという。革命時代には公共の場にクレーシュを飾ることが禁止され、プロヴァンスの人々は家の中に飾るようになったそうだ。

1803年からマルセイユのサントン市が始まり、それ以来、ずっと続いているという。毎年11月末から12月末まで、カヌビエール通り(マルセイユ一の繁華街)の一角にサントン人形の市がたつ。

まだ買い足りないものがたくさんある。もう一度この市を訪れたいものだ。

待降節(2)

東京のいろんな場所にクリスマスの飾り付けがされている。そのきれいなこと、テレビでみるだけではなく、実際にこの目でみてみたい。

ディズニーランドのクリスマスツリーは一度見に行ったことがある。帝国ホテルロビーの飾り付けがきれいだという評判だ。この季節、銀座でも歩けば、目をみはるようにきれいなのだろう。

南仏ではとても素朴なものだった。Joyeux Noelとか、Bonne feteといった言葉が小さな村の入り口やメインストリートに掲げられ、チカチカ点滅している。しかし、けばけばしくないのはよい。村のサイズにあった装飾だ。

パリのシャンゼリゼの並木に施されたイリュミネーションは有名で、テレビなどでも放送されるが、一度ならずその時期に行ったことがある。しかし、12月のパリは寒く、その光のページェントも車の中からみることになる。距離があって、身近には感じられない。一度、車を止めて歩こうかということにもなったが、あまりの寒さにロマンティックな気分は吹き飛んだ。

アフリカでは電力不足で、まともな飾り付けには出会わなかった。まず、クリスマス=冬のイメージがインプットされているので、夏の気候でクリスマスというのはしっくりこない。

日本ではクリスマスが12月25日に終わると、その日のうちに装飾がお正月用にかわる。諸外国ではどうなのだろう。フランスでは1月6日のエピファニーまでは飾られているようだ。彼らにはクリスマスと新年がセットになっている。


待降節

今日は日曜日、待降節第一主日にあたる。今日からキリスト教の典礼暦では新年だ。我々日本人は1月1日をもって、新年、新春というけれど、11月末に新年がスタートといわれても、ぴんとこない。大人になってのクリスチャンだから仕方ないのか、よくわからない。

今日からクリスマスのデコレーションを始める。教会から帰って、さっそく飾り付けを始めた。入り口に大きなもみの木があり、これにイルミネーションをすると豪華なのだが、外に飾ってどうする、誰も見ないのに、とつれあいは反対する。

だから家の中だけ。ツリーはしない。メインは南仏のサントン人形で構成するクレーシュ(キリストが生まれたという馬小屋)の再現だ。生まれたばかりのベイビーキリスト、マリア様にヨゼフ様、これだけあれば成立だけど、他に東方の3博士、それに村の人々、羊やヤギといった動物たち、これをサイドテーブルの上におく。

入り口のドアにはリースを飾るが、これは30年くらい前に母が作って送ってくれたもの。日本のお正月の飾り物は、毎年新しいものにするが、クリスマスの飾りはどうなのだろう。私は毎年同じものを使っている。とくにこの母のリースは古くなったものの、捨てられない。

そのほか、キャンドルやサンタの人形などを適当においていく。今年のニューフェースは、姉が作ってくれたステンドグラスの教会。明かりが入っている。それを窓際で点灯しておくと、窓ガラスに赤いステンドグラスが写って、ファンタジーの世界になる。

しかし山の中の一軒家(ご近所はみな引き揚げた)、クリスマスを迎えるという華やぎもなにもない。雪が降って、ホワイトクリスマスともなれば、ロンリークリスマスだ。

レスト・デュ・クール

今朝、BS2のワールドニュースの中で、F2のニュースをみた。まだ11月というのに、すでに冬に向けた慈善活動が始まっている。

今日の放送では、Banques alimentaires(食糧銀行)とRestaurent du coeur(レスト・デュ・クール、心のレストラン)がサービスを始めている。
食糧銀行とは、スーパーの出入り口付近にかごが置いてあり、そこにスーパーで購入した食料品(生ものはだめ)を寄付するのだ。夕方に銀行から集めにきて、それを適切に、必要とする人に配る。

心のレストランは、炊き出しが本来の姿だが、やはり食料品を配ったり、施設で給食を食べさせたりする。この心のレストラン、1985年に喜劇役者のコリューシュが始めたものだ。コリューシュは過度とも思えるほどの風刺をきかせた漫談をし、大統領選挙にも出馬するといった、ちょっと風変わりな役者だった。私はあまり好きではなかった。

しかし、この活動を始めたとき、なんと社会性のある役者なのだろうと思った。翌1986年に交通事故で死亡、しかし、その遺志は引き継がれ、もう4半世紀にもなっている。

日本でも一度日比谷公園に年越し派遣村ができて、同様の活動をしたが、全国的な広がりはなく、きちんとした団体もない。

フランスで感心したことの一つがこれらの慈善活動のありかただ。とても実際的で、実効性がある。

ああ、フランスも冬を迎えた。(時ならぬ降雪のニュースもありました)

故郷は遠きにありて(2)

親が亡くなったあと、故郷への帰属感はどのように変化していくのだろうか。
墓参をしながら、墓参という行為の意味を考える。実家の菩提寺には累代の墓がある。しかしその中に母のお骨ははいっていない。というのは母がクリスチャンであったためだ。

これでお墓が霊園のようなところにあれば、問題はなかったのだが、お寺さんにあるため、お寺さんがきらったのか、母が生前から拒否したのか、累代の墓には入らなかった。所属する教会がもっている共同納骨堂に、第一番目の死者として場を占めた。

この共同納骨堂は山を切り開いた霊園の一番奥にある。別に名前が記されるわけでもなく、納骨堂の中にひっそりと置かれているだけだ。当初は母が独りきりでさみしかろうと思っていたが、8年を経て、4体となっている。(この骨壷の数え方、正しいのだろうか)そのうちの一人は、住まいも近くて、母と親しかった方だから、きっと天国でもおしゃべりをしているのだろう。

父と母、別々に墓参というスタイルだ。去年はフランスで、友人のつれあいが亡くなった。南仏に住む彼ら、海が大好きだった彼ら、そのつれあいは海での散骨を希望した。その散骨につきあったわけではないが、その後、南仏を訪れたとき、友人と船にのり、散骨をしたと思われる場所に花をたむけた。

屍に魂がないというキリスト教、輪廻を信じる仏教、それなのに死後の葬りかたには矛盾がある。
墓参に帰るという行為、しっかり日本的と言えるのだろう。


故郷は遠きにありて

故郷に帰ってきました。18歳、高校卒業までくらした土地です。年数からいえば、東京で暮らしたほうが長くなりますが、幼児期から思春期までの、多感な時代をすごした土地は、懐かしいものです。

それに父母はもういなくても、お墓はあるし、実家は兄が継いでくれています。ですから、まだ行くではなく、帰るという表現を使いたいのです。

でも町の様子は全く記憶とは異なっています。道路も変わり、景観の変貌には追い付いていけません。新幹線が通る予定の駅は、真新しく、素晴らしいステンドグラスが光っています。
駅前には高層マンション、うわさではこの町出身の某歌手が最上階に部屋をもっているそうです。

繁華街をみると、シャッター通りになっています。シャッターでなければ、駐車場になっています。そしてほとんど満車の状態です。こんなに車があって、人がいるはずなのに、どうして人通りはないのか、店が閉めなければならないのか、不思議な感じです。

実家に近い老舗のお茶の店に行きました。「お帰りでしたか」と迎えてくれました。ほっとします。まだ知っていてくれる人がいる、それでなければ古里になりません。


現在住んでいるところからはとても遠い古里、あと何度帰ることができるやら、そのうち、きっと遠くにありて思うもの、になりそうな気がします。

冬芽がでています

今日はとてもいいお天気でした。朝、ゆっくりめに起きると、太陽の日差しがあたたかく、室内より外のほうがあたたかくなっていました。でも鳥用の水は凍ったままでしたが。

こんな日は庭仕事をすると気分爽快になります。ずっと気になっていた落ち葉の処理をすることにしました。枯葉のじゅうたんといいたいところですが、もう布団なみの厚さになっています。庭箒がききません。手で集めてかごにいれ、堆肥にするための場所にもっていきます。

サンショの木のそばにある堆肥製造工場は、もう山になっています。高尾山程度の高さだったものが、今日の仕事で、富士山の高さにまでなりました。

しゃがみこんで枯葉集めをして、疲れた腰をのばすため、立ち上がりました。そこにはほんの数日前まで紅葉の葉っぱを残していた木々に、しっかりと冬芽がついています。ああ、季節は順調に進んでいるわ、と赤みをおびた冬芽にさわってみます。ほんのり温かさがあります。

寒さはこれからが本番ですが、木々はしっかりともう先を読んでいるようです。私もそうできたらいいのだけど。

リンゴ祭り

上田のリンゴ祭りに行きました。JAの倉庫のようなところで毎年行われます。この日まで、自分ではリンゴを買わず、じっと我慢の日々です。

私にとっては、リンゴ・ヌーヴォー(フランス語ではla nouvelle pommeとでもなるのでしょうか)の日なのです。これから今年いっぱい食べる分を買います。そんな意気込みで行きました。

今日は快晴、途中のリンゴ畑には、リンゴがたわわに実っています。期待感があふれます。
会場は車があふれ、人出も多いようです。リンゴがなくなるわけではないのに、あせってしまいます。今年は天候不順でできが悪いということですが、赤いフジをみると、がんばって実ったわねとねぎらいたくなります。

フランスではやはり北部でリンゴがとれます。ブルターニュにいけば、リンゴ畑が続きます。そしてシードルというリンゴ酒が生産されています。食用にするリンゴでも、日本のものに比べ小ぶりで、袋掛けをしないせいか、野性味があります。ブルターニュでは、クレープにシードルというのが定番メニューです。この場合、クレープは甘いデザート用ではなく、塩味のものを組み合わせて軽食風になります。

別荘の庭にできたリンゴよ、とパリにいるとき、よくかごに山盛りのリンゴをいただいたものです。生でいただくにはちょっと、というときは、煮て、ミキサーにかけ、コンポートにします。砂糖もいれず、ちょっと酸味がありますが、デザートにとてもいいです。

日本の「世界一」という超大型のリンゴをみて、フランス人がびっくりしていましたが、リンゴもいろいろです。

アフリカにいたとき、南アからのリンゴをみて、とてもなつかしく、高価にもかかわらず、買い求めたことを思い出しました。

Beaujolais nouveau(2)

Beaujolais nouveau est arrive chez nousです。夕食時に飲みました。新酒らしく、さっぱりしていて、ぐいぐい飲んでもすっきりのどをとおります。赤スグリのジュースの色です。

今日は我が家で夕食会のはずでしたが、友人宅に招かれ、場所が変わりました。ワインをさげて行きました。

我が家からはローストビーフ、ポテトグラタン、デザート用の杏仁豆腐を持参しました。友人宅では、春巻き、チキンの照り焼き、白菜のサラダ、などが準備してありました。メニューとしては統一性がありませんが、何もかもとてもおいしく、ワインにあいました。

今年もこうして、おいしくボージョレー・ヌーヴォーを味わうことができる、と乾杯です。
これは大変うれしいグローバル化の一つです。

明日は上田の収穫祭へ行きます。私は私なりの歳時記があり、それを一つ一つこなすことで、季節の変化を実感しています。明日はリンゴを山ほど買いましょう。

Beaujolais Nouveau

今日は11月第3木曜日、そうボージョレー・ヌーヴォーの解禁日です。1本仕入れてきました。樹齢40年の葡萄の木から作られたものだそうです。

でも残念ながら、今日は飲めません。パートナーが夜の会合で出かけてしまったからです。車で外出ですから、飲むわけにいかないのです。

仕方ないので、明日、ご近所の友人ご夫妻をお招きします。メニューを今考えているところです。メインはローストビーフ、ポテトグラタンかベイクドポテトを付け合わせにします。冷凍にしている自家製トウモロコシで、コーンスープも作ります。オードブルを何にするか、まだまとまりません。デザートは他家製のサツマイモを使って、スウィートポテトを作る予定です。なんだかまとまりのないメニューです。
ボージョレー・ヌーヴォーに会うお料理はなんでしょう。別になんでもかまわないのでは、と思っているところです。

フランスでの11月の歳時記は、1日の諸聖人の日、11日の第一次大戦休戦記念日、この日を中心として学校の休暇があります。そしてこのボージョレー・ヌーヴォーがあり、28日には待降節(クリスマスの4週間前)に入ります。

今年のボージョレー・ヌーヴォーのお味は明日以降にご報告します。

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