劣等感をもつのも若いうち

加齢化現象のひとつに図々しさがあるようだ。体重が増えて増えて、もしこれを成長というのなら、まだ成長していると喜ばしいのだが、退化しているのだから、この体重増加は喜ばしいはずがない。
この体重増加を指摘されて、それがどうした、みたいに平気で聞き流した。

そして気がついた。なんと神経が太くなったことよ、と。これも成長かと。
昔は、こんなに体重がなかったのに、平均より重いというだけで、敏感に反応していたのだ。
小・中・高校を通じて、人より身長が高く、それにあわせて体重もあった。決して肥っていたわけではないのだが、身長が高い分、体重があったのだ。

人より身長があるというのすら、劣等感の一つだった。小学校のとき、級長をすると、列の最前列に並ばされた。列は身長順なので、私の後ろはクラスで一番小さい子だ。最後列なら、同じくらいの身長の仲間がいるのに、いつも居心地の悪い思いをさせられたものだ。

中学校や高校で、男子生徒とフォークダンスを踊る時など、男子生徒は、自分より大きな女子生徒とはバランスが悪いと、敬遠されていた。私より大きい人は半分くらいしかいない。だから、半数の男子生徒からは、我々背の高い女子生徒はいやいや踊るという態度がみえていた。
ときどき、「大女と踊るのはヤーなんだよな」という声さえ聞こえると、いよいよ劣等感にさいなまれたものだ。

165センチという身長は、今ならそう高いものではないのだが、当時はやっぱり大きくて、男性にもてないのも、そのせいだと信じ切っていた。高校のとき、男子にもてるのは、可愛いタイプの女子で、大女のジャンルに入る女子は、恋文を寄せられることなどなかったのだ。

長じて、大人になり、働くようになっても、職場の男性と、友人として付き合っても、女性としてみられている感じがなかった。日本の職場だけではない、外国機関で働いているときですら、女性とみれば口説くといわれているイタリア人ほどではないが、女性にやさしいフランス人に囲まれていて、それでももてないのは、よほど魅力がないものと、本当に思い込んでいた。

時がたてば、自分というものを受け入れるようになるものだ。人生60年をすぎれば、身長も体重も、親からもらったものというより、自分で形成してきたものと言える。あるがままに受け入れざるをえなくなってきた。
なんであんなに劣等感をもっていたのだろう。今でも、たまに「大きいですね」と言われる。特に、今住んでいる村の高齢者は小柄な人が多いので、大きくみえるらしい。

「大きいことはいいことだ」というコマーシャルには助けられたが、それも昔。これからこの身長・体重がちょっと問題になるのは、介護をうけるときと、棺桶のサイズだろう。もうどうでもいいや、これが到達した達観である。
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