洪水の思いで

7月29日、新潟や福島で大雨が降って、水害が発生しているようだ。阿賀野川や信濃川が、警戒水位どころか、氾濫の危険水位になっている。

災害はいろんなものがあるが、水害にたいし、特別の感覚がある。というのは、水害にあった経験があるからだ。平成23年ともなれば、昭和はもう歴史の感覚かもしれない。その昭和の28年6月26日、当時住んでいた久留米は大水害に遭った。

はっきり覚えているわけではないが、この年の梅雨は、本当によく雨が降った。入梅から晴れた日がなかったのではと思う。水害の日は、降ったり、降らなかったりで、筑後川が増水しているという話で、川っぺリまで見に行ったりした。

堤防のどこかが切れたという話で、大人からすぐに帰りなさいと注意され、歩いて20分ほどの家に帰りついた。川から我が家まで、坂道を登り、また下るという、アップダウンがあった。帰りついて、家族に「筑後川が決壊したらしいよ」と言ったが、家族は子供の言うことに、そう注意を払ってくれず、ぬれた服をすぐに着換えるように、としかられた。

それから30分ほどしてのことだろうか。玄関のドアからちょろちょろと水が忍び込んできた。それから、おやおやとばかり、ドアの隙間に物をおいたり、1間だけある2階の部屋になにかしら物を運んだりした。本当に無知にひとしかった。タンスが倒れることも考えず、高いところにあげればいいとばかり、タンスの上に積み上げていたのだ。

あっという間に床上、そして結局鴨居の上まで浸水した。家族は1間だけの2階に避難したが、道路に面したその部屋から、濁流とそれにいろんなものが流されているのが見えた。高価と思える家具などが見えると、こっちに引き寄せようかなどと、冗談を言う余裕もあった。

しかし、2、3軒先にあった材木屋さんから、太い大きな材木が流れてきて、家にぶつかるようになり、これは危ないと隣家への避難をすることになった。家一軒分の空き地を挟んだ隣家へ、もう大人でも背より高くなった水量に、子供の私たちは戸板にのせられ移っていった。姉、従姉、私、それに弟と4人の子供を避難させて、母がほっとしたのか、少し横泳ぎで泳いでいたのを覚えている。

いったん水につかった家というのは、無残なものだ。水がひいて、家にもどったものの、1階の部分は泥だらけだった。家具や仏壇などが流されず残っていたが、どんなに洗っても、乾くと泥が噴き出してきた。

家を建て直すほどの財力は父になく、白壁の部分は安いべニアで、床もなにか安い木材で修理して住んだ。同居していた叔母は、家の格式が落ちたなどと、ぼやいていたが、子供の私は、いつまでも残っている鴨居の上の水害のあとが気になっていた。

だから、毎年、どこかでおきる水害、洪水に無関心ではいられない。自然のいたずらというのか、無情というのか、この大雨、どうか被害が拡大しませんように。
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