故郷は遠きにありて(2)

親が亡くなったあと、故郷への帰属感はどのように変化していくのだろうか。
墓参をしながら、墓参という行為の意味を考える。実家の菩提寺には累代の墓がある。しかしその中に母のお骨ははいっていない。というのは母がクリスチャンであったためだ。

これでお墓が霊園のようなところにあれば、問題はなかったのだが、お寺さんにあるため、お寺さんがきらったのか、母が生前から拒否したのか、累代の墓には入らなかった。所属する教会がもっている共同納骨堂に、第一番目の死者として場を占めた。

この共同納骨堂は山を切り開いた霊園の一番奥にある。別に名前が記されるわけでもなく、納骨堂の中にひっそりと置かれているだけだ。当初は母が独りきりでさみしかろうと思っていたが、8年を経て、4体となっている。(この骨壷の数え方、正しいのだろうか)そのうちの一人は、住まいも近くて、母と親しかった方だから、きっと天国でもおしゃべりをしているのだろう。

父と母、別々に墓参というスタイルだ。去年はフランスで、友人のつれあいが亡くなった。南仏に住む彼ら、海が大好きだった彼ら、そのつれあいは海での散骨を希望した。その散骨につきあったわけではないが、その後、南仏を訪れたとき、友人と船にのり、散骨をしたと思われる場所に花をたむけた。

屍に魂がないというキリスト教、輪廻を信じる仏教、それなのに死後の葬りかたには矛盾がある。
墓参に帰るという行為、しっかり日本的と言えるのだろう。


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